鮭が生まれた川に戻るように:岸辺慧
70年前の1946年夏、親に連れられて日本へ向かい、成人してから祖国カナダに戻ってきた二世たちはバイリンガルで個性派ぞろいだ。周囲と違っていることをいとわない自立した「個」を感じる。ともすると日系社会の主流に埋没して周囲に気遣いながら育った二世とは明らかに異なっている。この違いはどこからくるのだろう。
70年前の1946年夏、親に連れられて日本へ向かい、成人してから祖国カナダに戻ってきた二世たちはバイリンガルで個性派ぞろいだ。周囲と違っていることをいとわない自立した「個」を感じる。ともすると日系社会の主流に埋没して周囲に気遣いながら育った二世とは明らかに異なっている。この違いはどこからくるのだろう。
昨年末の帰省便の機内で「日本の一番長い日」(原田眞人監督・2015)を見た。敗戦後の日本の方向性を決めた御前会議での政府首脳陣の苦悩は、緊迫感に溢れていて、復路で再度堪能した。
1941年12月7日、ジョージがストラスコーナ小学校に入って間もなく、日本軍がハワイを急襲し、その日から北米の日系人は敵国人と見なされた。翌年3月、川端家は家畜品評会場に詰め込まれた。ただ、やんちゃ坊主には恰好の遊び場だったのだろう。「転んで頭に酷い怪我をしました」と、今も残る傷跡を見せてくれた。
第二次大戦後の日系人の「追放」を語る上で欠かせない一枚の写真がある。1946年5月、スローカン駅で西海岸へ向かう汽車を待つ人々の写真である。これはケン・アダチ著「The Enemy That Never Was」(1979)の表紙に登場して以来、頻繁に使われてきた。実は、僕はこの写真を見る度に「あ、北村さんだ」と心で呟いている。汽車の来る方向をじっと見つめている右から2人目の女性が北村操子さんで、高明さん(長崎県口之津出身)の妻である。
1945年8月の敗戦とともに、生き残った300万以上の日本兵、満蒙開拓民、海外居住者など総勢600万以上がぞくぞくと日本へ引き揚げてきた。日系カナダ人約4千人もその一部を構成していた。彼らは概ね一世親と二世だったが、二世にとってそれは「帰国」ではなく「国外追放」だった。
「戦後70周年」の暦がもうじき変わる。世界各地で紛争は続き、めくる暦も更にきな臭いものになりそうだ。9.11に対する報復としての “War-on-Terror” (対テロ戦争)は燎原の火となって地球を舐め尽くしてしまった感がある。徐々に世界大戦にのめり込んでいる気配さえ感じる。
1941年12月7日。その朝、真珠湾攻撃のニュースが日系社会を驚天動地に陥れた。これまでの日系戦争体験は、概ね男性たちに関するものだったが、今回は女性に登場願った。
先日、シリア難民受け入れをカナダ政府に要求する集会に参加した。若者たちはどしゃぶりの中を“No One is Illegal”と叫びながら行進した。カナダが人道支援として、紛争終結まで最低限の生活を保障することくらいできないはずはない。
先日、ある移住者宅のホームパーティでのこと。皆ほろ酔いかげんになった頃、ある三世が「ちょっと興味があるのですが、あなたたちは日本とカナダが戦争になったら、どちら側に付いて戦いますか」と問いかけてきた。
2回に亘って故・川尻さんに登場してもらった。戦前の一世や日本で皇国教育を受けて帰ってきた二世の多くが、「神国・日本は負けない」と妄信していたことが見て取れるだろう。
第2次大戦中の日本列島を俯瞰すると、 東京が日本の心臓部なら、沖縄は日本の「ヘソ」に見える。その下の右脚は東南アジアに伸び、左脚は東のメラネシアを目指していた。米軍が沖縄を狙ったのも当然で、そこが日本の「重心」だからだ。米軍 の極東戦略にとって沖縄の重要性は今も変わらない。
老一世にインタビューしていると、もし自分が、あの日、あの時、あの場所にいたら、いったいどう対応していただろうと思うことが多々あった。その意味で、1993年に川尻岩一さん(当時94歳)をトロントのシニアホームに訪ねた時のことは忘れられない。「後世に遺して置きたいので、話を聴いてくれませんか」と乞われて2度出かけていった。