《太平洋往来史》川端家二代の125年(2)

 1941年12月7日、ジョージがストラスコーナ小学校に入って間もなく、日本軍がハワイを急襲し、その日から北米の日系人は敵国人と見なされた。翌年3月、川端家は家畜品評会場に詰め込まれた。ただ、やんちゃ坊主には恰好の遊び場だったのだろう。「転んで頭に酷い怪我をしました」と、今も残る傷跡を見せてくれた。傷は脳裏にも刻まれていた。「馬小屋ですからね、スティンク、スティンク! How could Canadian government do that to us, you know?」。

 一方、齢52の父・貞一は、45歳までの男子に強制された道路建設キャンプに向かう必要はなかったはずだが、出頭を拒否し、家族と別れて戦争捕虜となる道を選んだ。何が彼をそうさせたのか。

「父は極めつけの愛国主義者でした。戦後に日本送還を選びましたが、船が浦賀に着くまで、日本は勝ったと信じていたはずです」。

●戦争捕虜たちの「東方遥拝」

 ここで思い出すのは、有賀千代吉著「ロッキーの誘惑」だ。開戦直後に38名が逮捕され、3月に風光明媚なバンフ近くのシービ戦争捕虜収容所に移管されると、新たに13名が加わった。彼らは当初は「英雄気取りだった」が、直に「話がちがう」と不平を言い出した。戦争捕虜になると「毎日1ドルもらって一流ホテルに住み、美味しい食事にゴルフ三昧の生活ができ、戦後は(日本が勝てば)一人35万円の賠償金がもらえる」等という噂を信じて来たという。

 この後、全員がアングラー捕虜収容所に移管される。総勢786名に達したが、翌年から二世たちは徐々に出所して職を求めて東部へ移動していった。アングラーが閉鎖される1946年7月まで残った350名程は、大きく2つのグループに分けられるだろう。神国日本は決して負けないと信じる一世と帰加二世か、カナダ市民として政府の不正な強制収容に抵抗する者たちだった。 前者の典型が川端貞一さんであり、リーダーの田中時一さんだ。 他方、同じ一世でも牧師の有賀千代吉さんは国粋主義とは一線を画していた。

 後藤紀夫著「バンクーバー朝日物語」から引用する。「・・・早々に出所した有賀千代吉がゴーストタウンで、アングラーはひどい所だ、残っているのは賠償金目当ての欲ばり組だなどと語ったため、心配した家族からの手紙がアングラーに殺到し、田中時一が否定声明を出すという一幕もあった」。

 この記述は興味深い。有賀一家は、1943年8月 に捕虜交換船で日本に帰国する人員に選ばれた。出国前に訪れたタシメで、乞われてアングラーでの体験を包み隠さず語った。すると、「殴るぞ」と脅す者が出てきたという。戦局が日本に不利になっていることなど、信じたくない人たちが大半だったのだろう。「否定声明」を出したというリーダー田中時一さん自身が、賠償金目当てでないにしろ、日本の勝利を信じて疑わなかったことが彼の「備忘録」に書かれてある。

1944年、スローカンの収容所学校のグレード4学級写真:前列右端にジョイ・コガワ、最後列左端にデビッド・スズキ、左から3番目がジョージ。

1944年、スローカンの収容所学校のグレード4学級写真:前列右端にジョイ・コガワ、最後列左端にデビッド・スズキ、左から3番目がジョージ。

 一方、川端家の母と3人の子供はスローカンで過ごした。ジョージが覚えているのは「収容所には電気もなかったこと。自分で空き缶を使ってランタンを作ったり、スキーも木を削って作りました」。小学4年の学級写真には、今日カナダを代表する知性ともいえるジョイ・コガワ、デビッド・スズキの幼い顔が見える。この逆境と豊かな自然が、彼らの知力と自立心を覚醒させたのかも知れない。微笑ましいエピソードがある。10年ほど前にデビッドがトロントで講演した時、ジョイも挨拶に立った。彼女は「4年生の時、デビッドにぶたれたことがある」と暴露した。デビッドが「全く覚えていないが、ごめんなさい」としおらしく謝って会場を沸かせた。

●進駐軍キャンプの子

 1946年6月、川端家は最初の送還船で浦賀に着いた。母の郷里の大阪に赴くと、親戚は「何しに帰ってきたのだ」という目でみたという。それでも祖末な離れに間借りさせてくれた。

 姉2人がじきに進駐軍基地に住み込んで働き一家を支えた。父は英語力を活かして基地の図書館で奉仕した。既に、60歳に手が届く年齢だった。カナダに残って一から始めることを考えたら「帰国という選択は間違っていなかったと思います」という。

 さて、11歳の少年ジョージはこの混乱した状況にどう対処したか。「小学5年生に編入されましたが、全く勉強が分らないし、『アメリカ』と呼ばれて虐められる。つまらないから行きませんでした」。そして、姉の働く基地に潜り込んで、兵舎で寝泊まりしたという。そこが少年にとって一番「ホーム」に近い場所だったはずだ。

 兵隊たちも、彼を通訳として重宝したようだ。「覚えているのは、兵隊を杉本町の遊郭まで連れていったことです」。どうやら、金銭の交渉を日本語でしてあげたようだ。「目を盗んで基地の中を自分でジープを運転して走ったのを覚えています。そう、ちゃんとギアを使って。I was that smart, you know」。

 米兵と一緒に、トラックの上からチョコレートやガムを子供たちに配ったこともある。日本に来て逆に連合国側に属する「日系カナダ人」の自分が見えてきたのではないか。姉2人は結婚して北米に戻っていったが、長男ジョージは日本に残った。「進学のためと、親の面倒をみるためです」。

 大学を出て武田製薬に就職、北米担当として優遇された。引退後は、息子と家族のいる札幌で悠々自適の生活を送っている。

 かつて収容所学校で机を並べた二世たちは、1988年4月、オタワ国会前を練り歩き、政府が犯した戦時中の不正に抗議した。もしジョージがカナダに残っていたなら、「排斥はカナダの大罪!」というプラカードを掲げて歩いていたかもしれない。

「カナダ政府は、強制収容のお蔭で、日系人はゲットーから解放されたという言い方をしたと聞きました。とんでもない!」。政府の手で財産を奪われ、強制収容され、挙げ句の果て国外に追放されたのである。ジョイ・コガワ著「Obasan」の邦訳タイトル「失われた祖国」は、在日二世の物語にこそ相応しい。

ジョージは川端家を日本へ「送還」した政府に対しては辛辣だ。「あの排斥はカナダ政府のFELONY、大罪です」と語る。(2015年12月・撮影田中裕介)

ジョージは川端家を日本へ「送還」した政府に対しては辛辣だ。「あの排斥はカナダ政府のFELONY、大罪です」と語る。(2015年12月・撮影田中裕介)

晩年の川端貞一氏(川端家提供)

晩年の川端貞一氏(川端家提供)


[文・田中裕介]