戦後70周年:一世・川尻岩一(2)

 第2次大戦中の日本列島を俯瞰すると、 東京が日本の心臓部なら、沖縄は日本の「ヘソ」に見える。その下の右脚は東南アジアに伸び、左脚は東のメラネシアを目指していた。米軍が沖縄を狙ったのも当然で、そこが日本の「重心」だからだ。米軍 の極東戦略にとって沖縄の重要性は今も変わらない。 ● 70年間の軍事侵略

1945年、日本兵に投降を呼びかける米軍のビラ 「戦後日本の原点」所蔵

1945年、日本兵に投降を呼びかける米軍のビラ 「戦後日本の原点」所蔵

 1945年、 「時は迫れり!」という米軍による投降を呼びかけるビラが敗走する日本兵の頭上にばらまかれた。 既に、2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から90日後にソ連が参戦することは約束されていた。それは8月9日で、奇しくも2発目の原爆が長崎に投下された日と重なった。日本の即時降伏は、原爆投下ではなくソ連の参戦が決定づけたのだ。ともあれ、1874年の台湾出兵と翌年の江華島事件以来続いた、日本によるアジアへの軍事侵略の70年がこれで終った。  即座に満州の関東軍70万と官僚は、家族を伴って新京を脱出、開拓民を置き去りにして退却した。これは明治「元年者」以来の移民政策が、実は過剰な人口を海外侵略の捨て石として使った棄民政策であったことを証明している。  1945年初頭、日系カナダ人たちは、ラジオの短波放送から聴こえる相も変わらず威勢のいい大本営発表と、北米メディアで報じられる日本軍敗退のニュースの狭間で右往左往していた。一世の大半は大本営発表を信じて疑わない。成人した二世たちはそれを冷ややかに見ながら、一足先に東部へ向かった。カナダ市民としての人生を再構築するためである。  ●慰問品「味噌・醤油」のほろ苦さ

1944年、タシメに届いた慰問品「市協一世部三十五年史」所蔵

1944年、タシメに届いた慰問品「市協一世部三十五年史」所蔵

 開戦当時、既に東部で社会人となっていた二世ロジャー・オバヤタやトロント大医学生ウェス・フジワラ、あるいはBC大学を卒業間際に放り出されたフレッド・ササキなどの日系デモクラシー委員にとっては、日本は疑う余地なく敵だった。だから、1944年に赤十字を通じて慰問品の味噌、醤油、茶が各収容所に届いた時、同委員会は「日本のファシズムと戦っているカナダ人として、これは受け取れない 」という意見をニューカナディアン紙に掲載させた。だが、一世にとって、この恩を仇で返す親不者たちの物言いは許せない。ニューカナディアン紙を 「ボイコット」するという騒ぎに発展したという。  当時45歳でポポフ収容所の郵便局長だった川尻さんは言う。「二世には二世の考えがあったのです。ポポフでは敬老会を開き、そこで醤油の樽の『鏡開き』をして、全員の頭数で割って配給しました。一千人の大所帯でしたからね.大騒ぎでした。残った分は高齢者のいる家庭に配りました。その敬老会で、私がした祝辞がよかったといってくれる人が後々までいて、ちゃんと私の写真をブロマイドよろしくキープしている人がいたのを、実は今でも密かに自慢にしているんです」。  なんと正直で可愛い爺さんだ。いいな、こういう思い出抱いて死路に赴けるなんてとうらやましく思う。 ●日本へ「帰国」か、カナダに「分散」か

1942年春、レンペア道路キャンプ。前列右端に川尻岩一氏(日系ボイス1993年9月号)

1942年春、レンペア道路キャンプ。前列右端に川尻岩一氏(日系ボイス1993年9月号)

 日系社会の運命の「時」は刻々と迫っていた 。1945年初頭、カナダ政府は日本への帰還者を募集した。収容所の日系人たちは「動揺しましたね」という。同年12月までに日系人24,000人のうち 40%が「帰国」申請していた。だが、翌年3月末までには、うち6,313人が撤回し、最終的に日本に渡ったのは3,964人だった。  ここで記憶に留めたいのは、最後まで選択を拒否した硬骨漢たちだ。戦後もアングラー戦争捕虜収容所に遺留した400名ほどの中、170名が選択を拒み、1946年に軍基地のあるムースジョーへ移管された。2年後、最後までいた2人が営舎から放り出された。だが、尚も136日間テント生活を続けたという。理不尽な弾圧に抗して、理不尽な抵抗を続けたのである。「英国臣民」の権利奪回を叫び続けた。これを可能にしたのは、彼らのラジオを通じた抗議に共鳴し、食料を届け続けた住民たちの支援である。ムースジョーの抵抗こそリドレス運動の嚆矢だったかもしれない。  一方、混乱の最中、ポポフ収容所では、帰国募集に関する説明会が300人を集めて開かれ、川尻さんはその議長に推された 。議事進行に当たって、「自分は日本へは戻らない」という立場を明らかにした。「一つに、これはカナダ政府の提案であること。日本政府から帰って来いというのなら分るが、日本へ帰り着ける保証はどこにもない。また、子供たちはカナダ人として成長しており、今から日本へ行って日本人になれというのは酷だと判断したことを正直に話しました」。  翌朝、郵便局の前で待ち伏せする人たちがいた。「覚悟はしていたので、まあ、中で話しましょうと入ってもらったんです。彼らは祖国日本に対する忠誠心がないのかと私を叱責し始めました。私は、日本に対する忠誠心だったら、あんたらよりあるつもりだ。しかし、日本に今帰って何をする気だときいたんです。我々移民には移民としての使命がある。この戦争は日本の海外への発展のための戦争なのだ、と。もし、外交が復活した時にカナダの日系移民が皆逃げ出していなかったということになれば、情けない話だといってやりました。彼らは納得したようです」。  優れ者だ。他人を論破するのに、ぐるりと相手の後ろに回って、背後から「もっと先を見ろ」と恫喝する。彼らは反論の矛先を失うのである。因みに、川尻さんは英字新聞を読んで戦局が極めて日本に不利であることは知っていたという。  終戦後、カナダ社会から、これは同じカナダ市民を日本に追放しようとする政策だと強硬に反対する動きが国内から高まり、英国枢密院まで上程されたが、判決はこの政策を承認するものだった。   収容所内では、マクウィリアムス牧師が、焼け野原と化した日本へ向かうのを思いとどまるように説得し続けた。RCMPは彼の動きを察知し、教会での礼拝を監視したという。  今、これを書きながら、もし僕がポポフ収容所の郵便局で川尻さんの側に立っていたとしたら、どう反応していたかなと思う。あらためて川尻さんは立派だなと思う。それは日本人であることと、カナダ市民であることが一人の人格に両立しうることが明らかにされた一瞬だった。自分の知力と想像力を総動員して、カナダ政府の真意を見抜き、大本営のデマゴギーとそれに洗脳された信奉者の愚かさを見透かした上で、移民として正しいと思うところを主張し、それに従って行動した。 こういった自立した一世の行動が他の人たちをリードし、戦後の日系社会の基盤を造ったことを銘記しておきたい。