「家永教科書裁判」と私たち

By 鹿毛達雄

教科書裁判に寄せて家永三郎氏が記した色紙。 (写真提供:鹿毛) 

教科書裁判に寄せて家永三郎氏が記した色紙。 (写真提供:鹿毛)

 今年は第二次大戦終結の70周年。この70年間に起こったこと、経験したことの中で、しばしば思い起こされるのは1965年に始まり1997年に終結した「家永教科書裁判」とそれに関する私たちの支援活動である。このように長期にわたる訴訟事件は世界でも珍しい。

当時、 国立の東京教育大学の教授であった同氏が執筆した日本史の教科書を文部省の検定で不合格となったことがきっかけとなって、それを不服とする家永教授が日本の政府を相手に民事裁判を起こしたのである。この高等学校のための歴史教科書に関する訴訟事件は、大分以前のことだから、忘れている人が多いかもしれない。しかし、この裁判で取り上げられた問題の多くは、現在に到るまで論議の対象となっている。

  
 敗戦までの日本の教科書は国定教科書、すなわち、国の教育担当の文部省が作成したものであった。敗戦後、アメリカ占領軍が国家主義的な教育を排除するために、民間の出版社が学者や教師に執筆を依頼し、その原案を文部省が検定する制度が導入された。この制度は占領終了後も現在に到るまで維持されている。若い世代の愛国心を涵養するために日本の過去の歴史を批判するのは不適当と考える政府や保守派の見解と新憲法に基づく民主主義と国際平和を維持促進するためには過去の徹底的な反省が不可欠と考える進歩的な学者や市民の立場との対立、軋轢―それが教科書の検定問題に象徴されているのである。32年に及ぶ三次の家永教科書裁判の主要な争点は、1. 教科書検定制度が合憲か否か、そして、2. 日中戦争、アジア太平洋戦争における日本軍によるアジア諸国への侵略や残虐行為の記述である。たとえば、1982年には検定によって「侵略」を「武力進出」と改めよ、「南京事件」の被害者数や住民に対する残虐行為に関する叙述は学界でも論議されているから改めよ、などの文部省の検定意見については、中国・韓国を始めとして海外から激しい批判の声が挙げられた。そのため政府はこうした点を撤回し、教科書の検定に際して国際世論に留意しなければならないことを認めたのである。

 家永教科書裁判は3次の裁判が、三つのレベル{地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所}で審議され、判断されている。その内容の要点のみを記すと、1970年、第二次訴訟の一審での杉本判決は検定が学説、歴史学上の評価に及ぶ時は憲法違反であるとの判断を示した。当時、家永教授自身も「予想を上まわるすはらしい判決だったので、やはり訴えを起こしてよかったと思った」と述べている。

 この杉本判決を別にすると、その他すべての判決は検定制度を合憲としている。1997年の最高裁判所の判決も検定制度を合憲と認めているが、中国における731細菌戦部隊の生体実験などの活動にかんする叙述の削除を命じた検定意見は不法なものとする原告側の主張を認めており、さらに、高等裁判所が不法と認め、確定した論点が3件あり、そのうちの2件は「南京大虐殺」と「南京戦における婦女暴行」にかんするものであった。言い換えれば、第三次訴訟における原告側の主張がみとめられたものの大部分が日中戦争に関するものであった。さらに「従軍慰安婦」や沖縄の「集団自決」などの問題もこの裁判の過程で取り上げられている。

 

最高裁判決後の記者会見で謝辞を述べる家永氏 {写真提供:新井利男氏)

最高裁判決後の記者会見で謝辞を述べる家永氏 {写真提供:新井利男氏)

カナダで取り組んだ教科書裁判支援

 私たち、カナダの日系人は1997年の春以来、この教科書裁判の結審を控えて、当地で原告の主張を支持する活動に取り組んだ。私たちは中国系、ユダヤ系などのエスニック・グループと協力して、署名を集め、日本の裁判所に届ける運動を行ったのである。特に中国系のBCアルファの尽力により、日本の支援団体を驚かせた一万通以上の署名を集めて裁判所に届けることが出来た。署名集めに付き合った私は中国系の年配の人々が大勢、疑問を発したり質問したりすることはほとんど無く、署名に喜んで参加したことに感激した。それと同時に、その人たちには戦争の被害について何らかの経験や知識があることを知らされた。そうした活動が縁となって、私は東京の支援団体に招かれて、1997年8月の最高裁最終判決を傍聴することが出来た。(当時の様子を詳しく説明している拙稿を参照いただきたい。(「家永裁判傍聴記」。本誌、1997年10月号、42-43ページ。)

 

高嶋教科書裁判原告の当地来訪
 
上記のように、1997年に家永教科書裁判は決着したが、家永氏を継いで1993年に教科書裁判を起こしたのは当時高校教諭であった高嶋伸欣氏(たかしま・のぶよし、琉球大学名誉教授)である。この「高嶋教科書裁判」も学問、教育の自由や教科書検定制度の問題を取り上げている。同氏は社会科教科書「現代社会」に執筆した部分の検定による改稿の要求を不満として、横浜で教科書裁判を起こしたのである。この裁判で一部分、検定が不法であるという判断が示されたものの、2005年に最高裁が検定意見は適法という判断を下して、原告、高嶋氏が敗訴した。 
 ところで、戦後70周年を記念するために、当地の「バンクーバー9条の会」などの関係者が実行委員会を形成して、今年の秋、10月中旬にバンクーバーに高嶋氏夫妻を招いて講演をお願いすることになっている。従って、同氏から教科書裁判について、お話しいただく機会があるだろう。
 同氏は第二次大戦中に日本軍が占領・支配した東南アジア、特にマレーシアやシンガポールを調査研究のために、長年にわたり、数十回訪問されているので、アジア太平洋戦争の重要な側面を成す日本軍による東南アジアの支配についても、講演をお願いする予定である。