何でも好奇心「地産地消」

 15山火事の煙に撒かれた小鹿はノース・バンクーバーの山を下り、海を泳いで渡り、スタンレー・パークから7月22日(水曜日)はネルソンとハウ通りを歩き、イエールタウン、グランビル街に姿を現した。

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「減少する森林面積」

加奈陀の林産資源は全土の44%にあたる171万平方マイルが森林地帯である。そのうち約96万平方マイルから森林資材を産出している。樹木は大気中の2酸化炭素を吸収して酸素に代え、地球の温暖化防止のための重要な役割を担っている。1990年以降この森林が減少している。森林面積が減少する原因の4割以上を占めている加速する焼畑耕作がある。森林伐採して樹木を焼き払い、焼け跡を農地として利用する農法で、灰を肥料として利用するが、耕作できるのは数年にすぎない。農業を続けるには周囲の森林を焼き払い、新しい農地を造るため悪循環となり森林は失われ、そこが再び森林に戻るためには百年の年月が必要になる。

「フードマイレージ・地産地消」

食料自給率と環境負荷は消費地近くで生産された食物を食べれば、輸送の際に交通機関が排出する2酸化炭素の排出量を抑えることができる。これを数値化したのがフードマイレージで地元で生産した物を地元で消費する『地産地消』という概念がある。

「加奈陀の産業」

加奈陀は世界の宝庫、資源は無尽蔵といわれいる。①林産業、②水産業、③鉱産物、④農産物、⑤製造工業、⑥電力、⑦貿易が盛んである。特に貿易収支は大幅な黒字である。輸出の多くは天然資源に関連している。貿易内訳は農産物・水産物、エネルギー、金属・鉱物、化学製品・肥料、自動車・部品、その他の工業製品で輸入は機械、産業・建設資材、自動車・部品である。

「天恵に富むBC州」

天然資源の豊富、地下資源は銅、亜鉛、鉛、モリブデン、石綿、原油、天然ガス、石炭などの生産国となっている。1968年はニッケル、亜鉛、銀が世界第1位で石綿、ウラニューム、硫黄、石膏、モリブデンは第2位、アルミニュームは第3位、銅、コバルト、ポッタシュ、チタン、鉛、鉄鉱なども世界有数の生産国と言われている。加奈陀の資源開発のために亜細亜大会社の資本的な企業提携が活発に行われている。日・加合弁会社も年々増加している。

「日系林業王・花月栄吉氏」

紀州が誇る実業家、花月氏は1883年(明治16)9月5日、日高郡湯川村財部に生まれ、日露戦争に出征した。家業の煙草販売が国専売制度に変わり、その保証金の一部を持参し1906年(明治39)6月22日の出発船で加奈陀に渡航した。木場等の労働に従事し1年後、独立して山林業管理の事業を拡大した。柔道が強く、加奈陀柔道場で頭角を現した。大正元年に不況の為、事業を破産させた。再び、労働者として働き訪日して『木材需要調査』に力を注いだ。大正10年、日本木材業界の好況を知り、山林を買い三井・三菱の木材会社を得意先として材質優良の北米材の輸出に乗り出した。大正12年に資本金12万ドルでv市ファニーベイ山林を購入した。山林から海岸へ鉄道敷設した。機関車・貨車を購入し木材の運搬出に本支線合わせて約13キロを繋いだ。木材搬出に鉄道を利用したのは『加奈陀業界最初』、『林業界先駆者』として加奈陀政府から絶大の信頼を得て日加林業界、北米材輸入の大革命を起業した。

「社会福祉貢献者・花月氏」

林業王成功者の花月氏は社会福祉事業にも関心を持ち、第2次大戦後、日系人会長、バンクーバー商工会議所会頭、その他各種要職を歴任した。働く人々の子供のための学校を造り、仏教会の会長も務めた。政治、経済、社会方面にも関心を寄せ、在留同胞のために大きく貢献し『加奈陀産業界への功績』により英国王室バッキンガム宮殿に招待され表彰された。日本政府より叙勲された。戦後はトロントに移住し、貿易商経営して日本領事館開設のため努力なさった。日系老人団体『寿会』を結成、『済生会』を再興、苦難を乗り越え日系人のために尽力し、1967年(昭和42)多大な功績を残して同胞に囲まれて、逝去された。

「禁酒法時代」

酒類飲料は開拓時代には共同作業後の楽しみだったが、度を越して喧嘩沙汰や病気になることが多く販売を禁止した。禁酒支持者が酒の及ぼす社会的、道徳的影響、愛国的な立場から禁酒を訴え1915年から1919年まで全ての州が酒類販売を禁止した。ケベック州はビールとワインをオンタリオ州は州内産ワインを規制から除外した。医者は医療の目的であればウイスキーやブランデーを処方することが許されていた。加奈陀の禁酒法は1920年代末には解れ、政府直営店で売られるようになった。当時、米国は飲酒、酒製造まで禁止していた。密造酒取引人は大儲け、さらに加奈陀製酒類を密輸出したラムランナーたちは大大儲けしたと語り継がれている。

「開拓移民」

大平野とBC州への開拓移民が始ったのは1870年からで1896年ウィルフレッド・ロリエ自由党内閣成立、クリフォード・シフトン内務大臣就任後に西部開拓担当内務省再生を企画し、英米国に移民事務所開設と大西洋貿易会社と組み乗船予約業組織を通じて欧州からの移民を勧誘した。1896年は25万人、1911年は130万人、1919年は43%増加した。産業革命によって工業が発達、都市人口増加して開拓農民が北上した。開拓者の生活を支えたのは小麦であった。

[文・天野美恵子]