《戦後70周年》 灯火管制下の遠い夜道

1941年12月7日。その朝、真珠湾攻撃のニュースが日系社会を驚天動地に陥れた。これまでの日系戦争体験は、概ね男性たちに関するものだったが、今回は女性に登場願った。

 1941年12月7日。その朝、真珠湾攻撃のニュースが日系社会を驚天動地に陥れた。これまでの日系戦争体験は、概ね男性たちに関するものだったが、今回は女性に登場願った。一世男性が職、財産を失い、自主的に道路建設に向かうかどうか、日本人としてのプライドを如何に保つかをめぐり激論を交わし、動揺していた時、妻であり親である女性たちは家族の健康と安全を念頭にひたすら耐え忍んでいた。以下は、当時BC州チマイナスの日本語学校で教師をしていた一世・岡田きよみさん著 「道草集」に収録された、その翌日の体験だ。

1991年、トロントのハイパークでくつろぐ、かつてチマイナスで日本語教員をしていた岡田きよみさん。(日系ボイス1992年4月号掲載の宍戸晶子執筆の記事から)Photo: Masako Shishido
1991年、トロントのハイパークでくつろぐ、かつてチマイナスで日本語教員をしていた岡田きよみさん。(日系ボイス1992年4月号掲載の宍戸晶子執筆の記事から)Photo: Masako Shishido

●岡田きよみ著「真暗い夜」
 「聞きましたか」と給金を渡してくださった会計さんが声をおとされた。
「何でしょう」、「Xさんが引っ張られたのですよ」、「どうしてでしょう。語学関係でしょうか」、「それならOさんの筈だと思いますね」、「全く。それでは何のためでしょう」、「全然わからないのです。誰にも会わせないし…」
 昨日の今日である。英語の分らないものにも事の重大さが十分わかる語調をもって、刻々に伝えられる真珠湾攻撃のニュースに、私たちは一瞬にして敵国人という立場におかれたのである。これからどのような恐ろしい事件が起こってくるだろう。不安が私たちを押し包んで溜息をつく。
 と、入り口の方にぱたぱたと足音がして、すぐ先ほど、勉強が済んで帰したばかりの子供たちが、「私たちは帰られません」と顔色を変えて入ってきた。
「どうして」、「だってポンチクラック(製材所のタイムレコーダー)のところにワッチマンが鉄砲を持って立っています」、「心配はありませんよ。悪い人が来るといけないから番をしているだけですから」、「でも恐ろしいのです」
「そう、じゃ一寸待って下さい。一緒に帰りましょう」と支度をする。ポンチクラックのそばを通るのは私の近所の子供らばかりである。やがて連れ立って外に出ると、「先生、ハイウェイを通りましょう」と一人がいう。
「だって遠いでしょう。私たちは何も悪いことをしていないですもの。静かにワッチマンのそばを通りましょう」、「ノー・ノー」とみんなが口をそろえる。そのうちにわかるだろう。今はいうとおりにしましょう、と心を決めて道を曲がる。私たちはいつものソーミルの方を通った。ハイウェイにでると随分遠いので自動車以外には通らない。
「日本語学校はどうなるのですか」、「さあね。お休みになるかもしれませんね」、「おお、日本語で話すのを止めてください。日本人が通っていると知られるのはこわいから」、「でも、あなたたちは立派なカナディアンですよ」、「それでも日本人の子供です。どんな事になるか分りません」と極度に恐れる。一寸話し始めると「シッ!」とひどくいましめられる。あきらめて黙って歩く。
 灯火管制で、道に沿ってある筈の家からも光はもれてこない。真っ暗な道である。製材所があるために出来ている街だけに、舗道は全部板作りである。それがところどころいたんでいるので足下を照らすために、一寸フラッシュライトを使うと、直ぐに叱られる。「あぶないから」というと日本人と知られる方がもっと恐ろしい、と言い張る。私は兜を脱いだ。それから私たちは明かり一つない中を口もきかずに黙って歩いた 。注意深くかすかに立てる足音だけが耳に響く。
「あなたたちに罪はないのだから」と口で言えても、この子供たちがカナディアンであるために、不幸を見ずに、苦労をせずに過ごされるという見通しはつかない。
 こうして黙っていると、やっぱり不安が襲ってくる。昨日、あちらにより、こちらに集まりして、日系の人々が不用意に話していた将来に対する憶測が思い出される。今夜の子供たちの恐怖もそういうところからきているであろう。淋しい筈の道が少しも淋しくないのは、これから立ち向かう筈の困難にたいして緊張しているからであろうか。
 遠い道であった。やっと一人一人子供を送り届けて、最後に我が家のドアを明ける。いつもよりずっと暗くしている筈の電灯も開ききった瞳孔にはひどくきつく感じられた。明くる日、バンクーバーの日本語学校教育会から、学校は閉鎖すると通告があった。
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 こうして、日本語教育は、1949年にトロントで仏教会が再開するまで休止された。戦時中は、短い研修を受けた若い二世女性たちが中心となり、収容所で英語による教育が行われた。
 岡田きよみ(本名・嘉代)さんは,1907年年に高知県で生まれた。母の突然の病死の淋しさを、教師を目指して師範学校を受験することで乗り越えたという。受験に反対していた頑固な父は、こっそり受験生の宿泊所を事前に訪れて「娘をよろしく」と頭を下げていったことを後で知った。
 小学教員として数年勤めてやっと奨学金を返済した。そんな時、後に義父となる岡田氏がカナダで働く息子の嫁探しに訪れた。カナダでの景気のよい話を聞かされた。お金を稼いで親に仕送りしたいと思った。ところが、1928 年、バンクーバー島の漁業と材木業の町チマイナスに21歳で嫁いで来て、それが「大風呂敷」だったと分った。親元に愚痴を連ねた手紙を書いたこともある。だが、義母からの謝罪の手紙を読んだ時、親不孝なことをしたと恥じた。過ぎ去った過去に憂いを残しても進歩はない、前向きに生きようと思ったという。
 一世たちの失った財産と未来の夢に対する憤りは測り知れない。そんな中で、 岡田さんは外目には泰然自若とした希有な存在だったかもしれない。師範学校時代から短歌や随筆の執筆を70年間つづけてきた。
 いたづらに/夢を追ひたる迷ひより/今覚めにけり子の生まるとて
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 真珠湾攻撃の直後、チマイナスから日本国籍者11名が連行されていった。そして翌年3月、悪夢が現実になる。バンクーバー島にいた3400名の日系人全員が総移動させられ、日系コミュニティは消滅した。作家キャサリン・ラングは、戦前のチマイナス日系社会の様子を克明に調べて本にしている。

Catherine Lang著 “O-BON IN CHIMUNES” (Arsenal Pulp Press1996年刊)。1991年のお盆に元チマイナス居住者がこの地で再会して以来、ラング氏は取材を重ねてこの本を編集した。
Catherine Lang著 “O-BON IN CHIMUNES” (Arsenal Pulp Press1996年刊)。1991年のお盆に元チマイナス居住者がこの地で再会して以来、ラング氏は取材を重ねてこの本を編集した。

[文・田中裕介]