天野美恵子
8月16日のS新聞の土曜日weekend review c6 に1916年第1次世界大戦に義勇兵として参戦した日系加奈陀人Ryoichi Kobayashi氏の記事が載っている。薩摩藩の小林氏は1907年メイン島のホテルの料理人だった。24歳の時、自費で汽車の切符を買いアルバータ州のカルガリーの歩兵連隊に入隊した。Japanese canadian Veterans of the First World War.
「平和記念日、草野春馬」
11月11日は第1次世界大戦の終わった日で平和記念日である。赤いポピーの日、1889年、練習軍艦乗組員『金剛』がビクトリア湾に上陸した。軍港内エスカマルトで草野春馬候補生は22歳で急死された。当時のエスカマルト海軍省の許可を得て唯一人の日本人として海軍墓地に葬られた。立派な御影石四尺の四角い墓石に『軍艦金剛乗組少佐候補生、1889年11月11日逝く、草野春馬、行年22歳』と英語と日本語で刻まれている。
『日の丸のはっぴ 背に負い 同胞(とも) 帰る』
「スタンレイ公園 Stanley Park」
1888年から1893年にわたる加奈陀総督スタンレイ卿Lord Stanleyの名を採って命名したものである。千古のときわ木大樹が茂り周囲約7マイル(11キロ)広さ1,000エーカー(400ヘクタール)の大自然公園で花園、温室、野外音楽堂、動物園、水族館、運動場、遊技場等があり池にはペンギンや白鳥、水鳥などが生息している。この公園の中央に日系人によって建てられた第1次欧州大戦参加日系人勇士記念塔がある。その周囲には日本から移植した桜並木もある。第1次大戦に際し加奈陀日系人会は義勇兵を組織し196名の戦士を欧州西部戦線に送った。忠義勇兵を記念するために建てられた。
「100周年記念式典」Canada marks centennial of beginning of Great War.
第1次世界大戦100周年記念式典が8月4日、オタワのカナダ戦争記念館で開催された。デビットジョンストン総督、スティーブンハーバー首相、大戦参加退役軍人、関係者が出席して4年間に渡り英帝国軍として参加したカナダ兵士達に敬意と哀悼の意を表した。第1次大戦は1914年8月4日に開戦し1918年11月11日まで続いた。カナダで約65万人が徴兵され6万人が戦死した。
「1914年8月18日の下院」
この日、ボーデン首相は『この戦いで我等英国と他の英国自治領と力を合わせることに誰も異存はない』と述べた。人々は戦争熱に憂かれモントリオールでは『ラマルセイエーズ』と英国愛国歌『ルールブリタニア』が街に流れた。政府は戦争措置公布をしカナダは戦時体制に入った。1913年の防衛予算は1400$、1915年は1億7千万$、1916年は3億$に増やした。軍隊も開戦前は3000人が義勇兵2万5千人の募集に対し3万3千人が訓練を受けた。1915年には20万人の若者が志願した。戦債は1億$が国家債務は1913年には4億6千万$、1918年は25億$となった。
「敵性外国人」
戦争熱気中、オーストリア、ハンガリー系ドイツ系の住民を中心にカナダ市民を含む9千人が敵性外国人として強制収容された。オンタリオ州のベルリン市は名前をキチナー市と変えた。カナダ兵士はベルギー北西部のフランダース地方のイープルに送られた。フランス北部ソンムでは欧州に派遣されていたカナダ兵士10万人が投入され、およそ1万人が死傷した。参戦時点でカナダには航空機は1機しかなかった。巡航艇は2隻あったが、カナダ海軍は活躍する場がなかった。
「カナダ経済」
戦争によってカナダ経済は潤った。小麦、牛肉、バター、ベイコン、の海外需要が高まった。ニッケル、銅、鉛、木材、新聞用紙などの生産も上昇した。英国のために兵器や弾薬を生産する定刻軍需局は従業員25万人でカナダ最大雇用主となった。1913年のカナダ輸出額は3億8千万$、1919年は12億$であった。
「2つの想い出の日、リメンバランスデイ」
米国Veterans Day復員軍人の日で国のために殉じた勇士英霊を偲ぶ日である。ガスタウン近くのVictory Squareでは復員軍人、現役兵士が整列し、それを囲むように市民が集まっていた。午前10時40分に式典は始まった。消防吹奏楽隊が奏でる中、歌手がカナダ国歌と鎮魂歌を歌った。2分間の黙祷を捧げ、各国代表の献花が始まり、英国連邦諸国代表者が次々に献花した。日本を代表して総領事館出席者はいたが、日本は第2次世界大戦で旧敵国となり、第1次世界大戦では日本とカナダは同盟国であった。
「第1次大戦日系カナダ義勇兵記念塔」
1920年4月9日、寄付金15万5千5百$で建立された塔の除幕式が行われた。この忠霊塔は第1次世界大戦欧州戦線において生命を的に勇敢に戦われた196名義勇兵の名前が刻まれている。54名の勇士が戦死された。
Their Name Lives For Evermore Is It Nothing You All Ye That Pass By
「加奈陀日本人出征義勇兵名表」
戦死:第5大隊、西岡貞治(大阪府)第13歩兵大隊、徳永喜次郎(鹿児島県)能川郁(長崎県)志智貞吉(岐阜県)須田卵作(福岡県)浅田昇(神奈川県)徳永竹彦(鹿児島県)須田貞冶(福島県)柴田吾八(鹿児島県)行徳友記(福岡県)田中興次郎(滋賀県)
松林佐次郎(滋賀県)福井多賀吉(愛媛県)杉本吉松(三重県)鎌倉興市(鹿児島県)
負傷者:清水治平(埼玉県)井上管力太夫(和歌山県)永井栄次(和歌山県)松本金吾(長崎県)玉城釜郎(沖縄県)村上昇(福岡県)磯具勇(神奈川県)中島藤冶(熊本県)木下清市(福井県)池田二一(廣島県)村田作太郎(熊本県)藤井太一(廣島県)松田延雄(福岡県)杯茂三郎(三重県)庄司安蔵(山形県)奥武朝安(沖縄県)永尾郎蔵(北海道)吉沢一翁(熊本県)杉本潔(岡山県)大林良太郎(滋賀県)加藤堅正(東京都)山形良一(滋賀県)
生存:清水吉次(愛媛県)灘波茜(岡山県)井上善之助(廣島県)蒲池音次(鹿児島県)
第138大隊 生存:星崎武二(鹿児島県)
第50大隊 死者:川崎常松(和歌山県)羽島智機男(福島県)成田産次郎(兵庫県)多田幸平(宮城県)石井隆吉(鹿児島県)竹内八百蔵(熊本県)浜口長太郎(三重県)林元吉(滋賀県)井上産五郎(廣島県)中村長市(栃木県)坂市次郎(三重県)原田一男(福岡県)石原壽公(山梨県)土屋節次郎(静岡県)片山勝熊(熊本県)白砂武蔵(鹿児島県)小柳産太郎(福岡県)本摘物太郎(東京都)四宮平吉(徳島県)龍岡文雄(東京都)
負傷:久保田才之助(鹿児島県)前雄二郎(鹿児島県)磯村常松(愛知県)田尾六四朗(廣島県)帆野光掌(兵庫県)浜出文吉(和歌山県)武藤三郎(福島県)松田桑次郎(廣島県)山本音十郎(山口県)黒田米三郎(滋賀県)佐藤信次郎(大阪市)諸岡幸麻呂(佐賀県)祖父江玄硫(徳島県)荒木大太郎(廣島県)坂本湖七(山口県)斉藤延七(千葉県)岩崎茨助(神奈川県)山崎愛徳(鹿児島県)宮原助太郎(福岡県)平井常之極(兵庫県)栗徳葡楠(和歌山県)竹内芳蔵(埼玉県)
生存:中村葛一(廣島県)矢野鶯馬(鹿児島県)岩拳金之助(東京都)三栗谷保(三重県)野中常蔵(東京都)可知隆吉(和歌山県)佐藤三郎(宮城県)山本之松(和歌山県)飯塚喜代治(東京都)澤田敬勝(熊本県)田路野勇作(新潟県)猪原又三郎(廣島県)第10大隊(元第209隊)、久保寺巣策(山梨県)