戦後70周年:「ジャパンタウン」の実相

 2回に亘って故・川尻さんに登場してもらった。戦前の一世や日本で皇国教育を受けて帰ってきた二世の多くが、「神国・日本は負けない」と妄信していたことが見て取れるだろう。だが、カナダ生まれの世代が大多数を占めていた日系社会で、このナショナリズムはいつ、どのように形成されたのか、ちょっと見てみたい。

●「日本人問題」の再燃

 ケン・アダチは自著で「resurgence of Japanese questions」という言葉を使っている。ここでいう「日本人問題」は、日系人に対する差別意識と、日系人側の民族意識の高揚の両側面を含んでいる。 最初の「問題」は、1904年の日露戦争前後の「黄禍」で火が点き、1907年のバンクーバー暴動で炎上した。この時初めて、「白人の国カナダから出て行け!」と叫ぶ反アジア人連盟が登場した。

 では、「再燃」したのはいつか。アダチは1931年の満州事変だったと書いている。世界恐慌と日本軍の中国侵略は、カナダ社会の人種差別的意識を「先鋭化」したという。即座に不法滞在者2500名が摘発され、日系通訳官が背任と収賄で投獄された。BC州議会の排日政治家は、多くの軍人が漁民を装って西海岸の防備をスパイしていると喧伝しだした。その一人トーマス・リードは「日系人全員を日本に送還せよ」と主張した。 CCF(協同連邦党・現NDP)のMPアンガス・マキニスだけが、日系人の側に立ち「それはカナダの恥だ」と反論した。この主張は今でこそ正論だが、当時は少数意見だった。

 賭博場の支配人・森井悦治は、上記RCMPの不法滞在者捜査に協力した。こうして森井はカナダ政府側から信頼を勝ち取っていったが、一方で、時局委員会を通じて、日本への寄付を募って兵士への慰問袋やスズ、医療品を日本へ送り戦争協力していた。バンクーバーの日本人会は、中国での日本の軍事行動を正当化する手紙をオタワ政府に提出し、モントリオールの日本人会は、日本に対する経済制裁はひいてはカナダの経済に悪影響を及ぼすだろうと新聞で警告した。日中戦争が泥沼化するに従い、パウエル街界隈では、日本製品の不買、売り惜しみも日常化してゆく。カナダ全体が差別の連鎖に捕われていた。

 1941年3月、日系人は再度外国人登録することを義務づけられた。同時に、日系人5名がRCMPから指名されて、日系人の処遇に関する連絡委員となった。この森井委員会には、ニューカナディアン紙のショーヤマの名も見える。

 奇異な組み合わせだ。森井は一方でRCMPに協力し、他方で日本の戦争努力を支援していた。まるで二重スパイである。一方、ショーヤマの編集するニューカナディアン新聞は、これまで二世・東信夫が創刊したとされていたが、菊池孝育がその著「岩手の先人とカナダ」(2007年)で、 領事館が極秘裏に資金を提供し、二世を「役者」として雇って発行させていたことを 、当時の小川副領事の書簡によって証明している。時局委員会も領事館の「御用団体」だった。

 ショーヤマが日本政府の意向を紙面に反映させていたとは考えにくい。強制移動政策に関して、論説で「政府の政策に従い、よきカナダ市民であることを示そう」と主張している。

 これは森井委員会の主張と軌を一にしているが、真意は全く逆だったはずだ。国粋主義者・森井の真意は、この戦争は早晩、日本が勝利する、だから今は整然とカナダ政府の命令に従えと言うことだった。

  これに対して,二世の「がんばり屋」たちは上の両者と真っ向から対立し、森井委員会を排除し、抗議行動を起こして政府から「家族単位の移動」という政策変更を勝ち取ったのである。

●「ジャパンタウン」と朝日軍の復活

japan.town

 擦り切れた旭日旗の真ん中に野球場。このイメージ・ロゴは栄光の朝日軍の痕跡を再訪し、戦前の日系コミュニティの消滅と再興の歴史を記録し、且つ若いリーダーを育成しようという試みだ。ここに戦前の日系社会が、見事に二重写しにイメージ化されている。1920年代、野球は二世の遊びに過ぎなかった。だが、30年代に入ると、それは国粋主義高揚の手段と化し、朝日軍の勝利は、日本軍の戦勝会となっていった。一目瞭然だ。

 一昨年、この「ジャパンタウン」計画がフェイスブックに掲載されて間もなく、中国人の知り合いからメールが来て、「このロゴは問題だ」と指摘された。なるほど、と思った。その少し前に,韓国でのサッカー試合で日本の若者が旭日旗を振り回した途端に、警備員から取り上げられたという記事を読んだ。朝日新聞はその後、その青年にインタビューしている。それによると、「全く他意はなかった。ただ、旭日旗がカッコ良く思えたので自分で作って持っていった。非常に申し訳なく思っている」と反省の弁を述べている。無邪気に応援しようとしただけだった。

 問題は、戦後70年を経た今も、旭日旗がナチの鉤十字と同様、海外では拒否反応を巻き起こし兼ねない全体主義の象徴だという歴史認識の欠如である。

 昨年、あるパーティで、元気で爽やかなワーホリの青年に出会った 。すると、一緒にいた年配の移住者女性が、この青年の黒いTシャツに大きく旭日旗が描かれていることにギョッとして、「これは日本ではよいかもしれませんが、カナダでは嫌がられますよ」とたしなめた。

 その青年は、さらりと「そうですか。でも、僕は気にしませんから」という。そこで、僕は、カナダのアジア系コミュニティが日本の戦争責任問題に神経を尖らせており、日系社会はそれに抗うように民族主義的になっている現状を説明した。すると、彼は「僕は、日本が朝鮮半島に進出した時、喜んで迎えられたと理解しています」という。これは相手の思いを遮断した独善でしかない。70年代にカナダに移住し、日系企業で定年まで勤めたこの女性は、カナダでの人種関係の難しさを経験してきた人で、この歴史認識の違いに目を丸くしていた。

 後日、この青年はトロント中心部で開催された日本祭りに、このTシャツの上に、迷彩色の戦闘服をまとって現れたという。ある二世シニアがそれを見て「What a heck is that?」とあきれていたと、この移住者女性から聞いた。

 日本人の歴史認識は、世界のそれから遠く乖離してしまったようだ。この「ジャパンタウン」のロゴはその産物かもしれない。戦前の朝日軍への熱狂は、日系社会を呑み込んだ差別と民族主義が生み出した一つの現象だった。

 戦後70年、「我らが朝日軍」をカナダ社会に向けて語る時、 ナチの鉤十字同様、旭日旗が巻き起こすかもしれない不快感に無頓着だとすると、それは無邪気なノスタルジアの象徴というより、歪んだ歴史観の主張だと受け止められ兼ねないだろう。

 川尻さんは、「よく娘を連れて、コンジョーンズに朝日の試合を見に行ったものです」と語っていた。その娘パット・アダチが後に「伝説の朝日軍」を上梓したのである。

[文・田中裕介]