MEETS: バンクーバー新報社主 津田 佐江子

この度歴史あるバンクーバー新報が4月末で廃刊になるというので津田社長にお話をお聞きしました。

 津田さんと初めてお会いしたのは私がカナダに来た94年。Mackintosh LC というデスクトップコンピューターをバンクーバー新報のコミュニティ欄(売買)に広告を出したところ、コンピューターを買いに取りに来たのはなんと社長の津田さんその人でした!

 当時バンクーバー新報は自社ビルを完成したばかりで、遊びに行くと広くて綺麗なオフィスで何人もの社員さんがMacコンピューターで作業をしていて、新聞社ってかっこいいなあと思ったものでした。その中の一つにかつての私のコンピューターが使われていて、ちょっと誇らしくもありました(笑)

Photo: Manto Artworks

 電話をすると元気な津田さんの声が…

 「お久しぶりです、The Bulletin・げっぽうMagazineのKaoです。今日は私のつたないインタビューでよろしくお願いします。週刊誌の様な軽い読み物になってしまうかもです(汗笑)」

 「何言ってるのよ、そんなの気にしないでいいから(笑)」

 新聞社の社長さんを取材するとなると緊張するものですがいつもと変わらない気さくな津田さんの言葉に救われて、バンクーバー新報の興味深い歴史を楽しく窺うことができました。

  バンクーバー新報は1978年から日本語新聞を発行。当時はバンクーバーには新聞はなく、バンクーバー近辺の日系人はトロントやシアトルなどからの新聞を購読していました。

 新聞名は「バンクーバー」「晩香波」「晩香坡」を経て現在の「バンクーバー新報」になったそうです。
 

 「何年続いたんですか?」

 「41年と数ヶ月かな、長いね 」

 「一回も休まずですよね、すごい事ですね。この度の閉刊はコロナとは関係はありますか?」

 「廃刊をするのは事前にもう決まってたのね。新報をずっと続けてってくださいって言ってくださる人もたくさんいるのだけれど、もう時代は紙面ではないと思うのと、私ももうリタイアする年齢ですよ。ちょっと休ませてください(笑)」

 「津田さん、リタイアするには元気が余りすぎてます(笑)。それにしても日本語の新聞がバンクーバーからなくなってしまうのは本当に寂しいですね」

 「寂しいでしょ?でも時代はインターネットで。若い人は特に紙の媒体を読まないじゃないですか。私たちの年代はやっぱまだネットよりも紙面の方がいいって人も多く、『やめないでね』なんて言ってくれる人もいるんだけど、、、あの頃は日本語で相談にのってくれるところなんてないから、日本語で話せるっていったら『新報』じゃないですか。 だから新聞社に相談に来る人もいたりしてね(住居だったり法律のことだったり)、その後「隣組」や「日系センター」などの日系団体のサービスが充実してきたのでそっちを紹介するようになって『相談・便利屋』は無くなってきたんだけどね」

 「私も相談じゃないですけれど、絵本を出したことや個展をする報告を他愛なくおしゃべりをしに社長のオフィスを訪ねてましたよ。津田さん、いつもニコニコ話しを聞いてくれました(笑)津田さんはカナダに来る前は執筆に携わる仕事などをしてたんですか?」

 「私は書くことをプロでやってたわけではないんです。戦後、バンクーバーには何もなかったんですよね。『The Bulletin・月報(本誌)』はあったけれど当時はJCCAの機関紙で、皆さんに情報をお伝えするというメディアではなかったんですよ。日本語のテレビもラジオ放送もなかったんですから。バンクーバー新報は日本で今何が起こってるかを伝えたくてね…

 情報はバンクーバー近辺の5つの港へ到着する日本の貨物船の通信からもらってた。ファクシミリで来ると思うんだけど、船ではそういうのは捨てちゃうんですよ。捨てるんだったらちょうだいって言ってそこから情報を抜粋・編集して、紙に鉄筆で書いてインクをつける*ガリ版刷りで始まったんですよね」

 *ガリ版とは、謄写版(とうしゃばん)という印刷手法で、ヤスリ版と鉄筆を使って製版するときにガリガリと音がするのでガリ版とも言われる

 「よく船の通信に目をつけましたね」

 「貨物船に通信が届くっていう話しをお土産物屋さんが教えてくれて…船ではそれらのペーパーを捨てちゃうって聞いてそれはもったいないなあって、、だったらその情報をもらいに行こう!そこから始まりなんですよ」

「新聞をやろうっていう津田さんの行動力がすごいですね」

 「そりゃ若かったもの(笑)当時のバンクーバーの日系人街パウエルストリートには日系のお店がたくさんあった。『美浜屋』っていう日系商店に新聞を無料で500部置いてもらって、それがあっという間になくなった。活字にしてやろうなんて最初は思わなかったよ。で、やってみてお店に置いたら飛ぶようになくなっちゃったのよ。最初はガリ版、日本からポータブルの和文タイプライターを2台取り寄せて、そして本式の大きい和文タイプライター、それからワープロになり今のマッキントッシュコンピューターへと移行していったのね」

 

 「そのコンピューターの1台が私のところからいっているので、そこから新報の歴史に加われます(笑)私も色々思い出される事柄がありますよ」

 日系のアイカステレビ(ICAS)があった時代には、ICASと共催で「新報杯カラオケ・チャンピオン大会」や「大相撲カナダ場所」、「NHKのど自慢大会」の勧誘・開催などコミュニティーが一つになって大いに盛り上がりました。2009年の天皇・皇后両陛下のご訪問や、2010年のバンクーバー五輪なども良い思い出です。東日本大震災が発生した直後、バンクーバー新報は「がんばれ日本」キャンペーンを企画し、広告スペースを提供し、集まった金額1万3340ドルをカナダ赤十字に東日本大震災へとして寄付した。バンクーバーで行われたさまざまなサポートのチャリティーコンサートの記事などなど数え切れません。

 「日系祭りのスター・タレントサーチでは津田さんと一緒に観覧したりして楽しかったです」

 日系のイベントでは新報はメディアスポンサーになってコミュニティのサポートだけでなく日本とカナダの友好親善関係に多大な貢献をしてきました。

津田さんは数々の功績を讃えられ、平成26年度、外務大臣賞受賞を受賞。

「カナダに来たのは新聞社をやろうと思って移民したのですか?」

 「いえいえ、全然なんの目的もなくて、最初はアメリカを廻って日本に帰ろうと思ってたのよ。何をしようという意思はなかったですよ(笑)今で言うニートですかね(笑)」

 「英語を学ぼうとか?世界情勢を知ろうとか?」

 「あ〜全くなかったですね(笑)ぶらっと旅行して帰ろうと思ってた。ほんと行き当たりばったりですよ。会社を立ち上げるなんて意識はなかったですよ。こんな話は書かないほうがいいね(笑)」

 「ぶらっと日本を出て、バンクーバーで41年続く新聞社を立ち上げたってとても面白いです!」

 「私は離婚もしてるですよ。バンクーバー新報が始まった時は子供も二人いて、新聞社だけでは食べていくなんて到底できないので夜に寿司屋で寿司を握ったですよ 」

 「津田さんにもそんな時があったのですね」

 「私の頑張った時代です。なんでもトライしますよ。私は好奇心旺盛でね、*『はちきん』ですから(笑)」

 はちきんとは、話し方や行動などがはっきりしており快活・気のいい性格で負けん気が強いが一本調子でおだてに弱い。後ろを振り返ることなく前進し続けるといった頑固さや行動力あふれる高知県女性を表した言葉。まさに津田さんのことではないですか!

 「私は本当にフツーですよ。庶民なんですよ。移民して暮らしている人たちと一緒のところにいたいんです。日本語学校や隣組、日系センターとか皆さん一人一人の繋ぎ役っていうのを紙面を通してお手伝いをしたかったんです。それからみなさんの日常の暮らしに役立つことを伝えてあげたい。基本的にはうちは庶民の新聞ですから(笑)」

 「津田さんの中に思い出深い記事とか出来事はありますか?」

 「告知欄に尋ね人で掲載してくださいと男性から連絡が来たんですよ。その男性は彼女と一緒に旅行に来た時に旅行中に喧嘩別れして、彼だけ日本に帰国して数年後に結婚して幸せな家庭を築いたのだけど残してきた彼女がどうしてるか気になっているので探して欲しいってね。掲載して2日後ぐらいに女性の方から連絡が来てその女性もカナダで結婚して家族を持って幸せに暮らしてるって便りが来たって、本当にありがとうございましたってお礼状が来たの。そういうことがあるとお役に立てたなあって、この仕事してて本当によかったなあって、嬉しく思うんです。とにかくこの41年新聞社をやらせていただいて、学ばせてもらって育ててもらったって思ってます」

 「次は何をしますか?」

 「今しばらくちょっと考えたいですね。で、次の章に入りたいです」

 「楽しみですね、何をするか」

 「大したことはしないですよ、もうリタイアなんですから(笑)」

 41年間という長い間、本当にお疲れ様でした。バンクーバー新報の歴史を見届け、参加できたこと感謝しています。ありがとうございました!

[文:Sleepless Kao