日系人の体験と難民の受け入れ

今年は第二次世界大戦終結から70年。大戦とその終結に関連するさまざまな出来事を想起する機会である。15年前のこと、2000年にBC州のウジャール・ドサンジュ首相は8月15日を太平洋地域の「平和の日」とすることをバンクーバー公立図書館で行われた催しで宣言した。

 今年は第二次世界大戦終結から70年。大戦とその終結に関連するさまざまな出来事を想起する機会である。15年前のこと、2000年にBC州のウジャール・ドサンジュ首相は8月15日を太平洋地域の「平和の日」とすることをバンクーバー公立図書館で行われた催しで宣言した。その折に私はJCCA人権委員会を代表して発言する機会があった。その場で私は日系カナダ人にとっては1945年8月15日の大戦終結が平和の再来と言えないことを指摘したことを思い出している。(詳しくは本誌、2000年10月号、英文記事、31-32ページを参照されたい。)

 良く知られているように、1941年12月7日のアジア太平洋戦争が開始した直後に、戦時措置法(War Measures Act)が発動され、それに基く一連の政令( Orders in Council)による緊急措置によって、出生地や国籍に関係なく「敵性外国人」(enemy alien)とみなされた日系カナダ人はその90%以上が在住する西部沿岸地域から移動させられ、BC州内陸部などに収容された。しかも1945年の大戦終結によって、大戦中の移動と収容の政策は撤廃されず、戦時措置法の有効期限の延長が議会で承認され、それにより、日系人が年来の居住地であった西部沿岸地域に帰還することは、その後4年近く、1949年3月31日まで認められなかったのである。

 現在、改めてこのような日系人の体験を想起しているのは、数ヶ月前に法律となった 反テロリズム法(Bill C-51)によって市民の基本的な自由と権利を侵害する恐れがあることが憂慮され、かっての戦時措置法による日系カナダ人の権利が侵害されたことが想起されているからである。

 アジア太平洋戦争の開始の当時の政府は、日系人の移動と収容は国家安全のために必要と説明していたが、当時、軍部や警察の指導者はそれが不必要と考えていた。さらに、大戦中に国家に対する反逆の罪で起訴された日系人が皆無であったことも1944年当時の首相が認めている。そして現在、テロリズムなどの危険を理由にした少数民族に対する偏見と差別が再び表面化することが憂慮されている。すなわち、少数者の抑圧の手段としての反テロリズム法の危険性が指摘されているのである。

 たとえば、最近、シリアやイラクをはじめとする動乱の中東諸国からの何十万もの難民の受け入れが国際的な問題として連日 論議されている。カナダでも差し迫った連邦議会選挙の公約の中で難民の受け入れが争点のひとつとなっている。一方でカナダの移住政策のひとつの柱をなす人道的観点からの難民の寛容な受け入れが主張されているが、これに対して、難民の中にテロリストの活動家が紛れ込んで来る危険、すなわち、治安に対する憂慮に言及しての難民受け入れに対する保守派による慎重論がある。

 この問題を判断するための手がかりの一つとして、次のようなカナダの歴史的な実績を想起すべきであろう。すなわち、人道的、すなわち、国際的人権擁護の立場から、1956年から1年間に3万7千人以上のハンガリー難民を受け入れ、1975年—1985年には11万人のボート・ピープルとも呼ばれるベトナム難民を受け入れた実績がある。そして、いずれの場合にも、難民たちはやがてカナダ社会に適応し、市民として定着しているという経験が私たちにあるのである。従って、難民受け入れ慎重論と人種的偏見との間には紙一重の差しかないように思われるのである。

[文・鹿毛達雄]