7月13日から17日まで、私は次女と共に日系博物館の主催する強制収容バスツアーに参加させて貰いました。案内/世話人として活躍してくださった博物館員3人を含めた48人で、ヘイスティングスパーク、タシメ、ミッドウェイ、グリーンウッド、クリスチナレイク、スローカンバレー、ニューデンバー、カスロ、サンドン、カムループス、リロエットなどを巡りました。強制収容経験者とその家族は、30人以上いらしたのでしょうか。それぞれの方々が思い出深いその地で、自分や家族の記憶をたどられていました。
1941年12月7日の真珠湾攻撃当時、カナダで暮らしていた日系人は2万3千512人。そのうちBC州に暮らしていた2万2千人近くが敵性外国人とされ、日系人排斥の対象になりました。まず1200艘の漁船が海軍によって押収、その後、日本語学校全51校閉鎖、新聞3紙廃刊。42年には、大学生は退学させられ、自動車やラジオやカメラや火薬は押収され、反動的と見られた日系人は逮捕され捕虜収容所に、そして18歳から45歳までの男性は次々と道路建設などの強制労働に送られていきました。その後、残された女子供を含めたBC州の日系人達は、太平洋沿岸地域を離れて、東部に移ってアルバータやマニトバやオンタリオの砂糖大根農家などで働くか、政府選定の州内の内陸収容地に移るかの選択を迫られます。
収容村には、RCMPが日系人の行動を管理し、村への出入りも監視出来る様、旧鉱山のゴーストタウンなど、地形的にも隔離された場所が選ばれました。元々殆ど人の住んでいない所ですから、その地に送り込まれた日系人達が短期間で、政府指定通りの居住地を作っていく事になり、最低の生活条件が整うまでには時間がかかりました。雪の中でのテント生活や貧しい小屋住まい、不足する食料や日用品など、当時の生活環境は整っていた訳ではありません。でも、そこはツアーに参加した収容経験者にとって、思い出の場所でした。
今回訪ねた殆どの収容地に、かつての痕跡は残っていませんでした。そこは政府が戦時中に限った使用契約を交わした場所でしたから、大戦後は元の持ち主に戻されたり、転売されたりしました。ですから今回訪ねた先も、ただの原っぱだったり、リゾートだったり、ゴーストタウンだったり。タシメの住宅地は取り壊されてRVパークになっていて、離れた所にあった大きな建物数戸以外は殆ど残っていませんでした。そんな跡地に降り立った私達の旅は、当時の住宅図に見入って自分や友達や親戚の家を探している人達を手伝って、名前を探す所から始まりました。朽ちた当時のキンダーガーテン校舎に歩いていくと、そこで学んだと言うおばあちゃん達が当時の記憶を語ってくれました。今は集会所になっている当時のアパートで、管理人さんが「倉庫にあったけれど、これも当時のもの?」と、机と椅子を持って来てくれると「私の机!」と叫び声があがりました。それは、アレクサンダー日本語学校のために手作りされ、強制移動後、収容地の学校へと運ばれ使われていた机と椅子だったのです。こうして思い出の地を訪ね、昔の記憶をひとつ、またひとつと拾っていく人達の傍で、その体験を分かち合う機会に恵まれた私達は光栄でした。博物館の写真に自分や友達の姿をみつけて歓声を上げたおじいちゃん。何もない原っぱで、当時の地図を見ながら、自分の住んでいた家は確かあの辺、あそこにあれがあって、向こうにはあれがあって、と、感慨深く風景と地図と記憶を照らし合わせていたおばあちゃん。もう亡くなってしまった両親や祖父母の話を頼りに、その場所に来て、家族の記憶と人生を一生懸命辿ろうとしていた人達。博物館で、日本への送還船の日程表を見ながら「これが私の乗った船」と指差して、そのままそこにじっと動かずに立っていたおばあちゃん。収容所近くの港で、船一杯の日系人が収容地に降りて来る写真を見ながら「そうだった、こんな感じだった。あの頃は4、5歳だったから、何があったのか殆ど忘れてしまったけれど、この場面を今、思い出した」と教えてくれたおばあちゃん。あの山や川で遊んだ記憶を語ってくれたおじいちゃんは、友達が周りに沢山いて、思い切り遊べた収容所時代は楽しかったと語り、本当はとても辛かった筈なのに、そういう状況を子供達に感じさせる事なく、子供たちの幸せな日々を守ってくれた親達に本当に感謝していました。
強制収容は1942年から始まりましたから、当時の事を憶えているのは今70代後半以上の方達だけです。そして、その人達に残っているのは、親たちが必死で守ってくれた「子供時代の記憶」でした。でも、あの当時、本当はどういう状況だったのだろう、と、参加者それぞれが、一生懸命、当時の歴史を語ってくれる案内人に耳を傾け、博物館などの展示を巡っていました。また、移動中のバスの中のビデオ画面では、当時の写真の映像や、ドキュメンタリーや映画などが映し出され、ホテルに着くと、翌朝まで関連本が貸し出されましたから、5日間ぎっしり強制収容の歴史を学ぶ旅になりました。
カナダの日系人排斥は真珠湾攻撃から始まった訳ではありません。日系人の歴史は、移住当初からの差別と弾圧の数々をはねのけていく過程でした。個人的な弾圧もありましたが、戦前の日系人が闘い続けたのが、法律による差別でした。東洋系英国臣民に選挙権はなく、法律上の職業制限で、公務員や弁護士や薬剤師他、多くの職業につく事が出来ませんでした。また、日系人が漁業で成功すると、日系人を排斥するための漁業法案が次々と出来る、農業で成功すれば、農業の差別法案が出来る、という具合に排斥法案が作られていきました。戦時中の日系人排斥は、この歴史の延長線上にあった「戦争を利用した」排斥でした。こうして、日常生活の小さな規制に始まり、強制労働、強制移動、財産没収、強制送還、市民権剥奪など、数々の過酷な排斥法案が通されていったのです。ただ、今回の旅と、関連書からの学びで私が知ったのは、日系人が、一般に認識されている様な「可哀想な被害者」に留まらず、最初から最後まで、それらの逆境を闘い抜き、その「不正」に立ち向かっていった事でした。日系人達こそが、カナダの産業を発達させ、人権意識を高め、人種や文化の差別をなくしていく方向へと、法と社会を導いていった立役者だったという歴史でした。
BC州の日系人は、各地の製材所で最低賃金労働から始めて製材産業を発達させ、商業などは勿論、魚製品加工や輸出業や造船を含む漁業を発達させ、森林を切り拓いて農地に変えて農業を発達させていきます。大戦前は、フレーザーバレーのイチゴの8割が日系人農家から出荷されていましたし、漁業権の殆どが日系人所有でした。開戦後、彼らの農地や漁船は没収され、法外な安値で売り飛ばされますが、その農地や漁船を手に入れた人達が、農業や漁業を引き継いでいきました。また、強制移動先でも、日本人は勤勉に働き続け、大工や技師としてゴーストタウンを整備して復活させ、森林を切り拓いて農業の村を育て、教育機関を育て、新聞を発行し、正義と民主主義を訴えていきます。また、人種差別を取り除くために団体を立ち上げて政府との交渉を続け、訴訟を起こし、人権意識も薄く市民権も確立されていなかった当時の法律の不備を問い、他の市民団体と協力しながら、人権国家多文化カナダを作っていく原動力となるのです。こうして今、私達がこの地でおいしいものを存分に食べ、安心して暮らしていく事が出来るのは、日系人達のおかげなのでした。
でも、今回のバスツアーに参加するまで、私はこの事に気づきませんでした。日系人が戦時に道路建設の強制労働をさせられていた、と聞いて初めて、道路を造ってくれた人達の事を思う様になった程、私はこの地の歴史に対して無知でした。鉄道建設が中国人労働者によって作られた事は有名です。が、それ以外の、カナダの近代国家を作っていった先人達の歴史と、その仕事への評価が、今のカナダ社会には欠けています。日系人の歴史を含めて、大切な歴史の数々が知られないままに抜け落ちています。だからこれから、それらを掘り起こしていきたい、その歴史を生きて来た人達を通して、この地の歴史を知りたい、と思う様になりました。
ツアーというものに参加したのは初めての体験だったのですが、ツアーの、人と人とを繋げる力に驚かされました。ずっと一緒に行動するので、お互い知り合う事になるのですね。見知らぬ者同士が「日系人強制収容」という興味で結ばれ、こうして共に時をすごしました。しばらく一緒にいると、このツアーは、収容経験者を中心にした旅で、私達はその人達を支え、その体験を受け継ぐために、そこにいるのだと感じる様になりました。また、新しい人と知り合うと必ず、強制収容とのつながりを聞かれ、「新移住者だから直接のつながりはないけれど」と答えると、何故ツアーに参加したのかと問われ、何故なのだろう、と考え込みました。
32年前、カナダで暮らし始めた時から、この地の歴史について知りたい、と思って来ました。日本で育った私は、別の地で暮らすという事は、その地の歴史や伝統を知り、それらに敬意を払って、それを継承する人達の仲間に入れてもらう事だと自然に思って来ました。先人達に教えてもらって、その地の文化に共鳴し、受け継ぎながら、私自身もその土地の住人になっていくのだ、と。ところが、何故か当時のバンクーバーは「記憶」のない場所でした。この(英国系)白人の街で、知る事の出来たのは、彼ら中心の歴史の断片でしかなく、博物館を訪ねても郷土史らしきものをみつける事は殆ど出来ませんでした。他所から新しく来た人達も多く、郷土史に興味を持つ人も少なかったせいか、結局私は何も分からないまま。カナダに着いたばかりの頃訪ねたロイヤル=ブリティッシュ=コロンビア=ミュージアムでは、先住民展示や、実物大で再現された街の風景や漁業や製材所や農業などの歴史展示を見て感激しました。でも、結局それらの産業を「白人の歴史」として解釈し、カナダは、大昔に先住民が暮らしていた場所に、白人が作って来た国なのだと理解して博物館を出た印象が、その後20年近く続いた事を思えば、そこでも郷土史を知る事は出来なかったのです。
私が先住民学に興味を持ったのは、この大地の歴史、郷土史が知りたかったからでした。そうでないと気持ちが落ち着かないのです。先住者にこの地の記憶を教えて貰って、この地で生きる知恵を受け継いで、やっとここが自分の暮らす地になり、このコミュニティの一員になれる、と、無意識のうちに感じていたからでしょう。そういう意味で、その後やって来た移民達の歴史全てに興味がありましたが、日系人史は特別でした。自分と文化を共有する人達が、この地でどう暮らして来たのか知りたいと感じていたからです。だからこそ強制収容にも興味を持って来ました。日本から来た彼らが、どうやって異国の異文化カナダを故郷としていったのか。その経験を分けて貰って、私もこの地での生き方をみつけていきたい。だから日系人の人達から話を聞きたいと思ってきたのですが、そんな動機で人と知り合う訳にもいきません。それ以前に、日系人排斥などの歴史をくぐって来た人達と、どう接していいのか分からず、日系人コミュニティとどう付き合っていけばいいのか、私には分からないままでした。でも、今回のツアーで、そんなわだかまりが消えました。
私が京都出身だと言うと、強制収容経験者達は、京都や日本の知人や日本に行った時の話を嬉しそうにしてくれました。強制収容の歴史で日系人が失ったものは、日本文化と日本語と日本とのつながり。それなら、そういうものを当たり前の様に持っている新移住者の私に出来るのは、それらを日系社会に取り戻していく手助けをする事なのでしょう。そして私達新移住者は、日系人達から、排斥を含むカナダで生きて来た体験を伝えてもらう。こういう形で、協力し合える人間関係が築ける事、お互いがお互いを必要としている事が分かって、とても嬉しい気持ちになりました。
ツアーには、日系人の事、日本の事が知りたいと、参加しておられた白人の方もおられ、強制収容経験者の友達に「高齢で一人では無理だから付いて来て!」と頼まれたから、とオタワから参加して来られたフィリピン人女性もいました。こうして歴史や興味を共有して繋がった私達は、ツアーが終わっても別れ難く、また会う約束をしました。そして私は、あの人達にまた会うために、日系コミュニティとつながっていたい、と思いました。
ツアーの最後の訪問先はリロエットでした。宮崎ハウスを訪ねると、先住民の歓迎式で、代表者にお礼を言われました。強制収容時に日系人収容村で働いていた宮崎医師は、リロエットに落ち着き、そこで先住民の人達を大切に思って医療を施してくれた、と。宮崎医師へのお礼が、こうして「日系コミュニティ」に伝えられたのは、宮崎医師が、日系人の文化とコミュニティに育てられた人であった事、そして、私達が今もその文化とコミュニティを継承している事への気持ちなのでしょう。日系人の先人達が遺してくれた最大の偉業は、彼らがいい人達、立派な人達だったという事でした。そういう日系人に会ったという経験が、カナダでの、日系人や日本一般に対する信頼を育てて来たのでしょう。私も「日本人」というだけで、そういう信頼の恩恵を受けて来ました。だからこそ、日系コミュニティの一員として、誠実に生きて来た人達の歴史に触れ、その文化を継承していきたい、と思いました。
この旅で得た一番大切なものは、訪問先で出迎えてくれた日系人の方たちを含めての人との出会いでした。そしてその出会いを通して、日系人としての自分と、日系コミュニティとのつながりを見いだした事でした。人々がこの地で生きて来た軌跡を知り、それらの先人から学び、その伝統を受け継いで、それぞれの歴史を持つ人達とここでコミュニティを作っていきたい。ずっと抱いて来たそういう願いをかなえていく道筋が、開かれていく様に感じたツアー体験でした。
[文・写真:真崎久子]
真崎久子(まさき・ひさこ)
1963年生まれ。京都に育ち、高校を卒業後、ブリティッシュコロンビア大学に進学し、以来バンクーバー在住。4女の母。