日本人と韓国人 個人同士は <政治抜き>でいきましょう

世界各国出身の移民たちがカナダ国籍を取得 する際に、人種や宗教の相違を問わずカナダ国民としてお互いの人権を尊重する旨を誓う。とは言うものの、例のホロコーストを巡るユダヤ系とドイツ系、大量虐殺問題を巡るアルメニア系とトルコ系、そして所謂<南京大虐殺>や慰安婦問題を巡る対立が延々と続く私達日系人・日本人と中国人や韓国・朝鮮人等々、少なくとも<微妙な感情>、得てして<許せない憤り>が残存するのも人情として仕方がないかもしれない。

 世界各国出身の移民たちがカナダ国籍を取得 する際に、人種や宗教の相違を問わずカナダ国民としてお互いの人権を尊重する旨を誓う。とは言うものの、例のホロコーストを巡るユダヤ系とドイツ系、大量虐殺問題を巡るアルメニア系とトルコ系、そして所謂<南京大虐殺>や慰安婦問題を巡る対立が延々と続く私達日系人・日本人と中国人や韓国・朝鮮人等々、少なくとも<微妙な感情>、得てして<許せない憤り>が残存するのも人情として仕方がないかもしれない。

 こうした感情はとりわけ年老いた世代にとり<未だ現実>であろう。しかしカナダ国民や永住者には、人種や宗教の相違を問わず互いの人権を尊重する義務がある。そうせずに、カナダの様な多民族社会はどうして機能できよう。私見だが、正解は公の場での言動と、夫婦、親子や友人とのプライベートな会話を混合しない事ではないか。「XX人はああだから、こうだから嫌いだ。」多くの場合XX系カナダ人を指している訳だが、身内で言う事はあっても、公の場でそう論じたり、その様な内容の文書を公表するのはカナダではルール違反(not politically correct)とされている。

 人種差別自体については、最も影響力のある親たちが人種偏見を抱いていると、それが子供に受継がれる可能性が大きい。60年代前半まで遡ってみる。大学生時代で、飲み友達のハワイ出身日系3世のG君が無二の親友だった。善良で思い遣りがある彼とは英語と日本語のチャンポンで会話したものだが、たまたま彼が同学年の女学生Hさんと学生食堂で知り合った。韓国系の彼女はその後G君の良い友達となった。ある日G君いわく「うちのお母さんはよく朝鮮人(北朝鮮と韓国に分かれたのは戦後)の悪口を言ってるけど、Hさんと知り合って本当に良かった。コリアンでも良い人がいることがわかったから。」

 幸いに当方の両親は、親父の方がフィンランド人とのハーフである事もあり人種偏見がほとんどなかった。<ほとんど>とは、人種偏見が皆無の人間など非常に稀だからだ。親父は当時のソ連を国家として嫌っていたが、「ロシア人は嫌い」とは一度も言わなかった。でも正直な処、まだ黒人の友だちが一人もいなかった学生時代の当方自身、黒人に対する偏見があったかも知れぬ。当時の彼女と親しげに話していたタンザニア人留学生を呼び出して、「オレの彼女に近づくな!」と脅した(?)事もあった。その後60年代にギターを通じてはまったR&Bやジャズのお陰で、所謂<ブラザー>と呼ぶ黒人の先輩格や友人、仲間もかなりできた。

 1967年頃、英国某通信社のロンドン本社勤務の駆け出しの記者だったが、ある時休暇を利用して旅費が安いアムステルダム見物に行った。同市の郊外の寄宿舎に、東京の高校時代から知合いのインドネシア人の留学生が居たので訪ねたみたのだが、不在だった。どうしたものかとウロウロしていると、日本人にも見える東洋人に出くわした。英語で事情を説明すると彼、「とにかく」と自室に招き、緑茶を振舞ってくれた。韓国人留学生だったのだが、当時はオランダ辺りでも旧植民地インドネシアの人達以外、日本人も中国人も余り見かけなかった。「私たちの国の政府間には色々問題があるかもしれないけど、異郷で会うとやっぱり懐かしい感じがするね」とか話し合ったように記憶する。

 81年に現地の英字紙に採用されてシンガポールに渡ったが、当時はまだ日本人や日本製品も比較的珍しかった。一癖あるタイプが多いブンヤ業界のこと、ある日編集長が、履いていた日本製の靴をネタに<いじり>に来た。「この日本製の靴、買ったばかりなのにホラ、もうここの所が破損しちまったよ。」あたかも当方に<責任をとれ>と言わぬばかり、でも冗談のつもりだ。シンガポール人の部下たちの前で日本人をからかってみようとしたのかも。そこで当方、「日本製だって安物いくらでもありますよ」と返した。「That’s a good one!」と辛うじて応えた編集長氏、二の句がつけず退散、その後いじりに来ることはなかった。

 97年まで続いたシンガポール生活、新聞記者、政府機関の広報とシンガポール航空の機内誌編集長を務め、バンクーバー同様国際都市だから様々な国籍の友人、知人ができたが、なぜか韓国人と接する機会はほとんど無かった。だが一つ、83年頃ある工業団地開発事業を請負った韓国の大手建設会社を現場で取材した事があった。兵隊上がりの屈強な作業員を率いる元陸軍将校の現場監督者に会ったり、韓国大使館で商務次官や広報担当とも会見した。

 英字夕刊紙の記者として全て英語での取材自体が終ったとたんに、広報担当が開口一番。「じゃ、こっから日本語にしましょうか」と、英語よりずっと流暢ではないか。次官と二人共、以前東京の韓国大使館にいた由。くだけた話になり、勤務後よくナイトクラブに繰り出して後でホステス嬢を「ラーメン食べに行こうよ」と誘い出すのが楽しみだったそうだ。そこで商務次官氏がつぶやいた。「アー懐かしいなぁ。」工業団地の話よりよっぽど面白かった。

 面白いと言えば、語学留学と記者生活で合計30年以上も韓国で暮らしている産経新聞のソウル駐在論説員、黒田勝弘氏との対談を最近見たが、その意見の数々がまさに図星と思うので、かいつまんで幾つかご紹介してみたい。

 刺激的で面白いにしろなぜ韓国生活に飽きないか?同氏は自身考え出した「異同感」という言葉で説明する。「異なるようで同じ、似ているようで似ていない感じ」だそうだ。また食べ物文化。刺身の横にコチジャンやキムチがある「日式」料理店に取って代わって本格的な和食料理店が増えており、かつて日本風の看板やメニューを出すとメディアが社会問題視していたのが、今では平仮名を使うのが流行している。そんな店で反日的TV番組を見ながら飲むビールは以前の欧米銘柄よりも日本製ビールが圧倒的人気だそうだ。

 或る学生が買い求めた寿司の包装紙に旭日印がついてたので店に猛抗議して止めさせて、メディアに「愛国青年」と持ち上げられた事が最近あったが、寿司自体はちゃんと食べている。「今の韓国では何も<反日>イコール<日本嫌い>にはなっていない」と同氏。

 当方バンクーバーでは近所で商店を営む韓国人夫婦と親しく言葉を交わすことがあるが、昨今のように日韓政府同士の関係が悪化することがあっても、個人付き合いは「政治抜きでいきましょう」の精神で和気藹々だ。今年前半泊めていた語学留学生のR君はラクロスが趣味の快活なスポーツ青年だったが、バスケットボールやサッカー、外食や飲み会といつも韓国人留学生とつるんでいた。国家間の問題など全く関係ない様だった。読者の皆様の中にも、大らかに、気楽に<たまたま韓国人>の友達と楽しくお付き合いしている方々もおられるだろう。

 それでは日系人、移住者そして元在日韓国人の皆様も一緒に、今年もおつき合いいただきありがとうございました。ぜひ楽しいクリスマス、

また来年も良いお年をお過ごしください。

[文・渡邊正樹]