By 天野美恵子
9月下旬はBC州の『芸術祭典』文化祭の行事『バンクーバー朝日The Vancouver Asahi』国際映画祭でCentre for the Perfoming Artsで初日上演が行なわれた。第33回V市国際映画祭9月25日から10月10日まで70ヵ国から出展された350作品がV市9ヵ所で上演された。日系少年の憧れた『朝日野球軍』は排斥歴史の中で輝いた希望の星であった。
「海外日系博物館」
横浜海外移住資料館Japanese Overseas Kaigai ijyu Museumでは海外へ移住し、それぞれの国や地域で新しい文明造りに参加して着た日本人移住者の歴史とその子孫である日系人について広く理解を深めて貰うことを目的に様々な資料を展示している。
「日系人と農業」
南米に渡った日本人移住者の多くは農業移民だった。珈琲、綿、米、コショウ、ジュート、養鶏、多種野菜とくだもの、花栽培をした。気候風土の異なる新地で苦労や挫折の中で移民者は懸命に働き厳しい労働に耐えてきた。ブラジル珈琲農園の契約農民、アルゼンチンの花木栽培移民、パラグアイの大豆栽培技術者は『たくましく』豪快だった。
「農業の神様」
移民国家ブラジルには日本人の入植以前から農業労働者として連れてこられた多種欧州人移民がいた。コーヒー農園労働者として働いていた日本人移住者は自家用野菜農園を持っていた。1920年代に独立自営農園を営む日本人が増えると品種改良や農業研究が進められた。戦前に日本人が東南アジアから『コショウ』をブラジルのアマゾンに持ち込んだ。導入の次は改良で①収量の増加②味を良くする③糖分や水分、ビタミンを豊富にする④色を鮮明にし消費者の購買意欲を促す為に努力した。日系農家によって新種の導入、在来種改良、普及が行なわれた作物はキュウリ、キャベツ、ブロッコリー、ホウレンソウ、レタス、トマト、ナス、柿、栗、梨、マンゴスチン、アボカド、バナナ、リンゴ、ポンカン、アセロラ、マカダミアナッツなどがある。
「海外移住者の日」
毎年6月18日から22日までを海外移住者の日として海外移住資料館では特別な催しが開催された。1908年(明治41年)6月18日、第1回ブラジル移民船『笠戸丸』がサントス港に到着した昭和41年に『海外移住者の日』が制定された。今年はブラジル移民と関係の深い『銀座の珈琲』パウリスタの展示と珈琲試飲会、かるた遊び等の企画催しで5日間で900人が会場を訪れた。
「加奈陀から岡田総領事講演会」
カナダの岡田誠司バンクーバー総領事講演会が6月7日に横浜海外移住資料館で行なわれた。神奈川県立国際言語文化アカデミア共催で『神奈川県と横浜とカナダ、バンクーバーとの交流史、これまでの100年これからの100年』という題での公開講座が開催された。日本とバンクーバー市の歴史的繋がりや加奈陀日系移民の歴史を当時の写真や外務省の公文書等の貴重な資料をもとに講演をなされた。来年の『横浜とバンクーバー』姉妹都市提携50周年の節目を盛り上げる講座に80名が参加来場した。
「ララ物資」
Licensed Agencies for Relief in Asia『アジア教済公認団体』の頭文字をとった略称でララと呼んでいる。1946年6月に米国宗教団体や社会事業団体など13団体が加盟して組織化された。『ララ物資』を積んだ第1船『ハワード、スタンドベル号』は1946年11月30日に横浜に到着した。1952年まで続き、16,207.89トンの物資が届いた。
「物資受領量内訳」
出典は『海外日系人』第36号によると、その内訳は靴(男女子供靴、スリッパ)324,54トン、純毛原反、綿布、157,23トン、石鹸(浴用、洗濯用、薬用)178.63トン、綿(原綿)222,00トン、学用品(ノート、鉛筆)186,19トン、衣料(洋服、下着、寝具毛布類)2930,99トン、食糧(ミルク、穀類、缶詰め類、食油、脱水野菜、完全食、乾燥果物類、シロップ、麺類)12,145.74トン、肝油、22,35トン、ビタミン8,16トン、医療品(ビタミン剤、ズルフォン剤、救急薬、医療器具類)31,92トン、山羊2,036頭、乳牛45頭が1946年11月から1952年3月までに送られた。
「農業組合」
パラグアイのイグアス農業協同組合は『大豆栽培』で世界上位輸出国としての地位を確立した。この地で大豆栽培が始まったのは1921年でペドロクランシオという医者が欧州から大豆の種を持ち帰り栽培した。日本から1936年『ラコルメ』に入植した戦前移住者が味噌、醤油、豆腐、納豆の原料にする為に自給用として大豆を栽培した。戦後、農業移住者が厳しい自然環境の中で、電気や水道のない生活条件に苦しみながら原野を切り拓き農業生産に従事した。2011年『東日本大震災』報道後、日系2世3世が募金活動に参加し被災地に届けられた豆腐のパッケージにはパラグアイ国旗と『心はひとつ、パラグアイ国民は日本を応援します』と伝言が印刷されていた。豆腐を受け取った方は感謝感激だった。
「大豆栽培」
貧困から脱却する為に日系農家は懸命な努力を重ねた。悪条件を克服し独自の営農体系を確立した。機械化と省力化による生産拡大を選択した。この成功背景には先進的大豆生産農家の努力と共に、JICAパラグアイ農業総合試験所の研究成果と栽培技術指導、優良品種開発育成と不耕起栽培技術の定着がある。農地を耕さない方法で前作の刈り株や残りカスが肥料となり風雨による流出が防げ、耕作作業の省略による規模拡大が可能になる。
「資料館奉仕人」
大木さんは海外移住資料博物館でボランティアをしている。『ララ物質』の恩恵を受けたことに感謝している。彼女が小学生3年の時に学校給食が始まった。脱脂粉乳とコッペパン、肝油が毎日の献立だった。博物館で『展示案内』をしていた時、『ララ物質』を受け持ち、来館された方々に『移住者』『日系人』の祖国への暖かい思いを届けたいと今日も
博物館で戦後の学校給食の歴史を語り続けている。
「戦後の学校給食」
ララから送られた給食用物質、脱脂粉乳(スキムミルク)、缶詰、は貧しかった戦後の日本で重宝された。成長期の子供達の栄養不足を補うために始められた学校給食で多くの児童が栄養失調から救われた。現在、学校給食の牛乳もこの脱脂粉乳給食が基となっている。
「体験入学」
海外日本語学校に通う12歳から16歳の日系人を対象とした中学校体験入学はホームスティを通じて日本文化を学ぶ『日系社会次世代育成研修』を行なっている。今年は6月23日に北米南米4ヵ国から13名が訪日し資料館で『移住学習』を体験した。公開講演会は『日本人と海外移住』の題で12回、実施される。
「関連記事」
月報2011年1月、何でも好奇心「海外日系人大会」48頁、同年9月、何でも好奇心「朝日野旧軍」48頁、2012年「東日本大震災復興」48頁、2013年4月「311津波」63頁を参照。