By 天野美恵子
私が学生の頃、BC州で一番古い図書館の館長管理下で絵画の展示を任されたことがあった。知り合いの家屋改造取り壊し作業者が持ち込んだ『石の破片』が大きな波紋を呼んだ。長方形の赤石で積まれた煙突を取り壊したら暖炉の土台から加奈陀産ではない石が出てきた。暖炉の基礎石は宮城県の墓石だった。日系人の『排斥』を知らなかった私は顔見知りの長老に尋ねた。長老は私に背を向けて、長い沈黙が続いた。
「2つの100周年」
2006年に日系社会で『水安丸航海100周年記念祭』とバンクーバー日本語学校(共立日本語学校)創立記念晩餐会が開催された。『水安丸』を記念して10月には日系ヘリテージセンターで日系人移住者の歴史について歴史家の故ミッジ鮎川氏ら4人によるパネルディスカッションがおこなわれた。13日にはリッチモンドで日本人移住者の歴史を記した記念碑の除幕式が行われた。同日午後6時からは、カナダ日系博物館における水安丸ゆかりの品、特別展示会の開会式が行われた。14日の100周年記念晩餐会にはBC州から200名、日本から100名、カナダ他州及び米国から100余名の参加者で旧交を深めた。創立100周年を迎えたバンクーバー日本語学校並びに日系人会館の記念祝賀会が10月9日に学校ホールで開催された。カナダ政府代表ジェーム.スムアー国会議員、サリバンV市長、大塚総領事、州議会議員、地元有力者、学校功労者、卒業生、父母関係者350名が参加した。80歳代の戦前の卒業生が多数参加し、多くの人々に感銘を与えた。
「水安丸航海」
及川甚三郎氏の一人娘『しま』さんは幼少の頃から鏑木牧師の家に預けられ、彼女は共立日本語学校へ通った。12歳の時、戦争が始まり『父親の命令』で日本の実家に帰された。
「共立日本語学校」
BC州で最初に設立されたのは1906年、バンクーバー市共立日本語学校であった。1910年バンクーバー島カンバーランド5号地語学校で1911年にはスティーブストン語学校が開校した。1917年には7校、1930年には29校と増加していった。生徒数は1917年に408名で教師は12名だった。1930年の生徒数は2,555名、教師は68名だった。(日本国総領事館の年次報告書、角田利源太領事の手書き参照)
「第1号大学卒業生」
日系で最初に大学を卒業したのは1894年生まれの『内田千登世』さんで1916年にBC大学を卒業している。加奈陀で最初に生まれた2世は1889年である。
「山林王」
花月商事と近江商人は7000エーカーの森林土地を所有していた。『お助け製材所』を経営し多くの若者失業者に暖かい生活補助を与えた。『ヘイスティングミル』お助け会社はタダイチながの、とよきちマトバ、フクさきやま、きぬこウチダ、チトセうちだ、なかセキネ、まさひろタナカ氏7名が『棄民』を自らの『命』を掛けて守り訪うした。
国際人の新渡戸稲造博士は1932年に70歳で米国と加奈陀の講演旅行途中で病に倒れた。1933年の秋、ビクトリア市で世を去られた。この世界平和の架け橋となった教育家を記念する為に造られたのが記念庭園である。人工湖を中心として周囲に山あり、滝あり、小島に川があり、日本から取り寄せた桜、もみじ、つつじ、蕨、葺き等も植えられている。石の灯篭に茶室まである。東洋的な雰囲気と常緑樹を背景とした庭園は千葉大学園芸部講師の森歓之助氏の設計と指導によって造られた。
「庭園建設支援功労者」
この庭園建設資金は委員会が日系人から$3500を集め、V市が維持費担当、各地方には総領事が直接依頼をした。日系市協『岩田欽一』学校『数田喜代三』仏教会『中村源三朗』合同教会『浅井唯一』生長の家『味元虎巣』聖公会『桑原茂』天理教『白木一雄』庭園業組合『西秀太郎』大学生部『田端隆男』筋子組合『杉山岩吉』商工会議所『荒川武雄』幹事『佐藤伝』12名が建設支援功労者である。
「新渡戸庭園の開会式」
日本と米国に『太平洋の橋』を掛けた方、この橋は普通の橋ではなく『友情と文化の橋』である。1960年5月3日の『日本新憲法発布記念日』に合わせて開園式が開催された。新渡戸庭園開園後は『茶の湯』と『活花』の公開実演があり、美術館における『富岡鉄斎』の絵画展覧会もあった。その際に日本語による説明を英語に通弁したのは佐藤伝先生の教え子(加奈陀生まれの2世)であった。
「加奈陀日系教育私記」
佐藤伝先生の言葉は『桃、栗、3年、柿は8年、だるまは9年、わしゃ 一生』で始まる。1906 年に福島県棚倉町准教員養成所と戸叶漢字学塾に通って漢文学教師として1908年7月に福島県東白川郡豊村尋常高等小学校に准訓導の教員としての第1歩を踏み出した。月俸9円給与が与えられた。当時の教育方針は『硬教育』『質朴剛健の精神』『鍛錬主義方法』で『育(もう)へびにおじず』であった。だが、佐藤先生は『子供と共に楽しむ』『共に生きる喜び』に重点を置かれた。昼の食事は子供と共に教室内でとり、食後30分を昔の偉人の物語を聞かせた。渡辺崋山が貧しい生活苦の中で努力と忍耐と葛藤しながら立派な画家となり親孝行した話や中江藤樹の幼児期に実母から受けた尊い教育の話、豊臣秀吉の戦略頭脳明確術など人が生きてゆくための心得であった。
「戦前の共立国民学校」
1906年に創立されたこの学校はV市アレキサンダー街439番に帰加2世、日本に帰国する父兄の子供には日本国民教育を授けるという目的があった。1917年当時は木造建1棟で4教室、職員室、宿直室、生徒数150人、教師4人で小学科と別科があった。初代の校長は小塚斎先生、2代目は田中寅雄先生、3代目は田代勝之助先生だった。1912年、佐藤先生が中心となって教育調査会、維持会、学務、母子会を設けて改革に乗り出した。其の頃『大陸日報』『加奈陀新聞』『民衆』3つの日本語による日刊新聞があった。
「ストラスコーナ学校、Strathcona Village」
日系人住宅区域中心にあった公立英語学校の生徒は日系、中国など30余国から加奈陀へ移民してきた子弟1400名が通学していた。ブラウン校長先生を慕う生徒や卒業生、その地域活生化を願望するストラスコーナ商店街の商工会議所長、ジョージ熊谷氏がV市イーストサイド改革に乗り出している。
「関連月報記事」
- 2012年2月号64頁The Bulletin何でも好奇心「自転車カナダ大陸横断」
- 「新渡戸記念庭園 Nitobe Memorial Garden」
2014年12月19日編集部による追記:
『げっぽう』12月号「読者からのお便り」に当記事と関連した以下のメッセージを掲載しました。
『げっぽう』九月号についてメールしております。55ページの「移住者の活躍する団体」という記事の中、右コラムに「新渡戸庭園の開会式」というパラグラフがあります。その最後に「通弁したのは佐藤伝先生の教え子(加奈陀生まれの2世)であった。」とありますが、開園式のあとで、日本から招かれたお茶とお花の先生の通訳をしたのは、私です。
私は東京女子大学を1957年3月に卒業し、5月にカナダに来ました。当時は日本から渡って来る人は少なく、私は日本人の合同教会に通いましたから、新米の私はある意味では目立つ存在だったかも知れません。1959年夏にPNE で「日本」を主題として取り上げた時、依頼されてお茶とお花のデモンストレーションの通訳をしました。
そして1960年5月の新渡戸記念庭園の開園式のために、通訳をして下さいと頼まれたのです。既にその経験がありましたし、新渡戸稲造先生は東京女子大の第一代学長先生でしたので、喜んでお受けしました。
私の所には、その時井上徳子さんのお宅でお二人の(お茶、お花の)先生と井上さんと一緒に撮った写真があります。その年の7月に、私は主人とその前年に生まれた長男(ピアニストのジョン・キムラ・パーカー)と一緒に庭園を訪れ、主人に写真を撮ってもらいました。それらの写真はアルバムに仕上げて、現在は、新渡戸先生に関する資料として東京女子大の図書館に保管されています。
唯一人その場に居合わせていらした井上徳子さんは先日九十歳代で亡くなりました。かく申す私も八十歳の誕生日を迎えたところです。私が来加した1957年前後に日本から来た女性は私のほかには二人しか知りません。そのうちお一人は何十年も前に亡くなり、もう一人の方は現在トロント在住です(今でも連絡を取り合っていますが。)戦争中に内地に強制送還されていた日本人がバンクーバーに帰って来ることを許可されてからまだ数年後のことでした。その時の民間のエピソードは必ずしも文献、写真、新聞記事に載っているとは限りません。そういうことも念頭に入れておくべきだと感じました。そうでないと、普通の人々の生き様は、どんどん記憶からも記録からも失われていきます。
つまらないことに色々言葉を費やしましたが、『げっぽう』の編集者として、記録に残るようなことを記事にする場合、真実を確かめることが重要と考えます。 パーカー 敬子