天野美恵子 (Mieko Amano)

3つの島
フレーザー河口の下流にドン、ライオン、ルルアイランドがある。1894年、小野寺家一族(本家、分家)の佐藤モンザエモンは18歳で父が工面した支度金を持つて単身、渡加した。農家に住み込み、1年目は英語が喋れず無給、2年目から月給1ドルを稼いだ。其の頃、加奈陀人が紅鮭しか食べず白鮭や筋子が棄てられていることを知った。1900年に独学で英語を勉強して加奈陀国籍を取得した。そして、科学の英語書物を愛読した。
サケ漁
フレーザー河上流の採卵場は欧米加奈陀人が棄てた筋子を塩と保存温度を調節してオレンジ、黄橙色、赤、赤紫、ルビー色に変えて木の箱に詰めて故郷に送った。当時、鮭の群れに棒が立ち、其の上を犬が走って渡ったと言われるほどの『紅鮭』がいた。春から初冬まで切れることなく多種の鮭が取れた。加奈陀人が棄てた鮭は塩漬にして日本に送った。
水安丸
宮城県登米市出身の及川氏が1906年に3本マスト帆船『水安丸』に83人を乗せV島ビクトリア近付のビーチャーベイに下船した。参考文献、月報1月号2006、34頁、The Bulletin Feb.06(Centennial Celebration of Suian Maru Voyage Planned for October 2006)p.29 月報12月号2006今北玲子さん(ありがとう、カナダ)42頁、43頁に記載されている。
宮城県民の渡航費
水安丸に乗るために掛かった費用は1人100円であつた。当時の農家の次男が朝から晩まで働いて稼いだ給料は1ヶ月3円であった。其の上、出稼ぎで送金することが条件であった。『日本にいてもカナダにしてもお金を稼ぐことは容易ではない。しかし、いざお金を稼いで日本へ送金するとなると生活苦に苦しめられた。』と渡加した人達は書き残した。
合言葉
出稼ぎ日本人漁業従事者の間ではヨソモノ(他県人)、クニモノ(同県人)、ムラモノ(同郷人)にはっきり区別されていた。中村幸右衛門氏の記録によると『棄民政策』『労働移民』『とうろうの斧』だと当時の状況を記録に残していた。漁師は鮭の漁期が終わると、製材所で働いた。当時の加奈陀は世界一の木材輸出国であった。
製材所
フレーザー河の河畔に上流から筏で運ばれて来た木材を陸揚げして積み上げた。それを製材所で柱や板にする仕事があった。蒸気の動力を利用して機械廻転式のこぎりで木材や柱や板にするのは熟練者の仕事であった。新入りの見習いは外働きであった。内部では木材を移動したり処理された板を取り片付ける単純な作業だった。製材所は危険に満ちていた。外働きをする者は材木に挟まって手や足を折る者が多かった。内働きでは材木を切るベルトに巻き込まれて指や腕を失う者もいた。
伐採人夫
フレーザー河上流の山には30人一組の日本人集団が雇われた広島県出身者が多かった。毎日、粗食で重労働を強いられた。冬は寒い小屋の中にごろ寝の生活だった。大きなモミの木を切り倒す仕事は木の根元から高さ2mの所に櫓を組みその上での作業だった。この仕事も危険が伴った。大木が倒れる瞬間に逃げ送れて圧死した者が多くいた。又、木の破片が目に入って失明した者もいた。出稼ぎ労働者は短期間で仕事を求めて移動した。
佐藤島
佐藤モンザエモンの島には西郡、浅水、上沼、佐沼出身の人々が住んでいた。この島の7エーカーを12年契約で祖借し、漁業の傍ら菜園業を経営していた。渡加10年で商才に冴えた佐藤氏は晩市(バンクーバー)カドバ街に土地や家屋を持ち港近郊の土地、漁船、漁網、株式権など総財産は4万ドル以上の巨額資産家であった。晩市で大規模な筋子製造と輸出、漁業団体の監査役も勤めた。島のモンザエモン家は木造3階建ての大きな家で2階の広間には英語の本の図書館もあった。島の漁師やその家族に日常生活に必要な英会話を教えていた。彼は懸命に働き、加奈陀人になる為の努力をした。
佐藤せつとの結婚
モンザエモンは32歳の時に岩手県藤沢町出身の佐藤せつと結婚した。生家は養蚕を営む豪農家であり、弟はブラジルに投資移民していた。
排斥
モンザエモンは80歳までハミルトンで生きた。通訳、移民の引受人、漁業組合の役員、輸出会社の経営者などををした。『幸運は前髪しかない。後で気がついても、捕らえることが出来ない。』と大事業を成し遂げながら、戦争で全てを失い、ハミルトンのバーリントン墓地に眠っている。
昨年の月報5月号P61に久保克己さん記「菅原安信さん追悼記」が載っている。ICAS(アイカス、環太平洋文化交流協会)の理事だった菅原氏は2013年3月24日(日曜日)20時23分に享年80歳でお亡くなりなりました。在リシ日ヲシノビ ハルカニゴ冥福ヲ 祈リマス。謹んで菅原安信様のご冥福をお祈りすると共に奥様のご自愛を心からお祈りします。(編集部追記:菅原氏は「水安丸航海100周年記念ーフレーザー河は知っている」(2006年)を監修されました)