
写真提供: 日系博物館・文化センター
第二次世界大戦当時、日系カナダ人の大多数がBC州西部沿岸地域に在住していたが、その人たちが強制的に移動させられ、大戦後にいたるまで収容されたことはカナダの人種差別の歴史的事件としてよく知られている。
ところでその日系人の移動と収容に直接関係がある施設がバンクーバーにもある。遊園地としてよく知られ人気があるPNE(パシフィック・ナショナル・エクジビション)と呼ばれる施設がバンクーバー東部のヘイステイングス・パークにあり、その施設が日系人の最初の収容所となったのである。
このPNEは1910年にバンクーバーの産業育成のために設立されたもので、広いグラウンドや大きな建物などからなる農工業の展示場として始まったものである。その後、遊園地の施設も追加された。ここで毎年、遊園地としてのフェアが開催されているので親しみがある人も多いだろう。
1941年12月、第二次大戦がアジア・太平洋地域に拡大され、カナダがこれに参戦すると、戦時措置法が発動され、これに基く政令によってさまざまな戦時措置が実施された。大戦勃発直後から日本国籍の成年男子はBC州東部のカナダ横断道路の工事キャンプなどに送られた。さらに政府による日系人の総移動の方針に従って、1942年3月4日の政令によって、連邦政府、労働省の中に「BC州保安委員会」が設立された。ヘイスティングス・パークの施設は軍によって接収されて、同委員会の指導の下に、この施設が最初の日系人収容所となったのである。
収容の対象となったのは、西部沿岸から160キロ(100マイル)の地域に居住する日系人。当時、カナダ生まれ(63%)、カナダ国籍の帰化人(14%)を含めて、日系人すべてが「人種的に日本人」として「敵性外国人」と見なされ移動させられたのである。
中継のための一時的な収容
当時この西部沿岸地域に在住していた日系人は約2万1000人で、当時のカナダの日系人の人口は2万3000人だったから、90%以上が移動の対象となったことになる。このように多数の人口を短期間に移動させ、収容することは、参考にすべき前例もなく、容易なことではなかったと1942年のBC州保安委員会(連邦政府)の報告書は述べている。そのため、大きな建物などを含むヘイスティング・パークのPNEの施設が日系人を収容先に振り分けるための一時的な「中継収容所」として機能することになったである。
このバンクーバーの施設は1942年3月から9月末まで運用された。当時、180床の総合病院のほかに、60床の結核患者の収容施設も含まれていたが、ニュー・デンバーの結核療養所の準備が整わす、結核患者や医療関係者は1943年3月31日までここに滞在していた。)
当時の日系人の多くはBC沿岸地域で漁業、林業、鉱山業に従事していた。先ず最初に移動させられたのは西部沿岸遠隔の小さなコミュニティ(オーシャン・フォールス、プリンス・ルパート、ユクエレット、ロイストン、ソルト・スプリング島など)からであり、日系漁民の町、スティブストンからも早くから移動が行われている。続いてベリー栽培などを行う日系人の農業が盛んだったフレーザー・バレーなどへと順を追ってバンクーバーに近い所からの移動が行われ、ヘイステイングス・パークの施設に収容されたのである。
BC州保安委員会の報告書によると、当時、この収容所には同時に4000人の収容が可能で、9月末までの開所期間中の収容人数合計は約8000人、食事は150万食以上が供給され、一食あたりの平均費用は9セントということである。以上の数字から推定して、日系人は平均2ヶ月あまりこの施設に収容されていたことになる。(それ以外の大半の日系人は従来の居住地から直接に州内陸部の収容所や他州の農場などに移動している。)
この施設は鉄条網ではないが金網の垣根で囲まれ、日帰りの外出は管理する警察の許可があれば可能だった。収容所内には売店があったが、キャンディ、スナックなどわずかなものが置かれていただけだったようである。しかし垣根越しに近所の商店からの新鮮な果物などを買い求めることができた。[未完、後半は 次号に掲載]
[文・ロレーン・及川、訳・鹿毛達雄]