カンバーランドの炭鉱労働者追悼記念週間の行事から

今年6月12日から15日の週末に掛けて、第29回炭鉱労働者追悼記念行事と第44回年次太平洋岸北西部労働運動史協会(PNLHA)の会議とがカンバーランド村で開催された。このような催しは私にとって過去への旅と呼べるものであった。

 今年6月12日から15日の週末に掛けて、第29回炭鉱労働者追悼記念行事と第44回年次太平洋岸北西部労働運動史協会(PNLHA)の会議とがカンバーランド村で開催された。このような催しは私にとって過去への旅と呼べるものであった。

    カンバーランドはバンクーバー島のコモックスコ・バレー(Comox Valley)にある歴史的な街、車でナナイモから1時間半、コーテネイ(Courtenay)から約10分のところにある。カンバーランドはかってカナダで最も危険な炭鉱として、そしてジンジャー・グッドウィンの死亡事件(殺人だったと見る人も多い)のために知られていた。このジンジャー・グッドウィンは炭鉱労働者のための適当な賃金や安全な労働環境などのために闘った労働組合の活動家であった。労働者はさまざまな出身者からなっており、日系カナダ人の炭鉱夫もいたが、その人たちは不平等な取り扱いを受けていた。

   カンバーランドの毎年の炭鉱労働者追悼記念行事の催しでは、このような炭鉱夫の物語が語られている。炭鉱労働者追悼記念行事とPNLHA会議は共に労働者歴史を保存し、労働者の体験や労働問題に関心を持つを聴衆の視野を広げようと活動している。

   この週末にはPNLHA会議の行事が加えられたために、例年になく忙しいものだった。行事予定に含まれていたのは、ウォーキング・ツアー(徒歩での見学訪問)、ワークショップ(研究集会)、音楽の余興、パンケーキの朝食や功労者の表彰が行われた夕食会などであった。 ワークショップの議題としては、先住民、中国系カナダ人日系カナダ人の労働者の体験が含まれていた。たとえば、カーステンテン・マクアリスターはブルー・リバー道路工事キャンプにおける収容された日系カナダ人の強制労働について発表している。

 グレッグ・増田と私がグレーターバンクーバーJCCAを代表してこの催しに出席した。グレッグの写真家、ビデオ撮影の専門家としての技量は大いに役立った。同氏が6月14日の催しの多くの場面をイメージとして残したからである。私の場合は言葉を使って、かってこの土地に住んでいた日系カナダ人のイメージと心情とを呼び起こそうとした。

2014年6月14日、カンバーランド、ロイストンにて

 日系カナダ人の墓地は公営墓地の一部をなすものではない。それは樹木の間の草の茂った丘の上にある。私はその場所に誰よりも早く着いたので、小鳥のさえずりが聞こえるほど静寂だった。早くその場に早く行って、駐車のスペースを確保したらいいというのはフロレンスのアイディアだった。フロレンス・ベルと私の母という二人の少女が人種差別の収容政策によって別れ別れになるまで親友だった。私の母の当時の名前はマエ・土井で、日系三世だった。母は当時、なぜ、非日系人の友達、自分のものだった人形、自分の家、生まれ育った土地と別れなければならないのか理解できなかった。自分、そして、兄弟、両親はヘイスティングス・パークに送られ、継いで、 BC州東南部のクートニース (Kootenays)地域として知られている スローカン渓谷に送られたのである。

 全員が揃うまでの静かなひと時を利用して何を話したらいいかを考えた。私はグレーターバンクーバー JCCAからの挨拶のメッセージを伝え、私の家族のカンバーランドとの繋がりを説明ししいたらいい。木立の間を吹き抜けるそよ風が私に囁きかけるように、昔のことのかすかな記憶が呟きとなって私の耳に伝わってきた。

[10月号に続く]

カンバーランド博物館・文書館  (Cumberland Museum and Archives)

http://www.cumberlandmuseum.ca/events/enjoy/miners-memorial-weekend

太平洋岸北西部労働運動史協会 (Pacific Northwest Labour History Association)

http://pnlha.wordpress.com/

[文・ロレーン・及川、訳・鹿毛達雄]