コミュニティ団体を利用する人と、団体自体の存在 そのどっちが大事?

    今回は特に注意せねば、ちょっと哲学的な難題に取り組んでみたいからだ。即ち、私達日系カナダ人や在住邦人向けの、たいてい職員とボランティアによる諸コミュニティ団体を利用している人達と、社会的な役割をはたしているそうした団体自体の存在だが、究極的にどっちの方が大事なのだろう?

 「誰々さんが何々さんの事を云々…」などという噂や悪口の類には、もちろん日系カナダ人や在住邦人も、カナダ人一般も気を悪くするのが人情。そこでこの一文は特に気をつけて書かねばならない。個人名や団体組織の名前 は一切出せないが、最近ある人とEメールで議論をし、その論点が知的にかなりシンドかったことについて語る。

 当方の職歴は、1966年にロンドンのロイター通信で駆け出し記者として始まり、ワシントンDCやパリの支局勤務を経た後、ギターを抱えて大道芸人気取りでパリ、イビサ島やローマを放浪した時期があった。その後、サンフランシスコ、次に東京で専門技術の和文英訳で糊口をしのぎ、1981年にシンガポールの英字新聞でサラリーマン記者に復帰、97年バンクーバーに4人家族一家で移住、以降は翻訳、本誌などでコラム書き、それにセミ・プロ級(?)のジャズ・ギターを毎月某パブで弾いている。

 いささかややこしくて読者に申しわけない。だが「知的にかなりしんどかった」との前述は、そうした経験に培われた現代の<グローバルな常識>に基づく。<部外者と内輪の者との立場の違い>をめぐる議論だったが、結局余り実りがなかったからだ。

 経緯は説明する。仮にNさんとしよう、連絡を取ろうと当方その所属団体だと思ったところにEメールした。ところが、そこは同施設内ながら別の団体だという責任者の返信。「この団体にNさんという人はいません」とのことだったので、考えた末再度Eメールを送った

「それでは同施設内にNさんという人はいないのですね」と念を押してみると、「Nさんなら知ってはいますけど、申し上げたように団体が別です」とまだ所属団体にこだわっている様だった。その辺からEメール交換による議論となったものだ。

 先方の主張は「コミュニティ活動に参加している渡邊さんなら、所属団体の違いくらいは心得ていなければ」だったと思う。対する当方の主張は「問合わせがあったら、その相手が誰であろうと便宜をはかるのがコミュニティ団体の役割ではないか」だった。

 そこで一つ具体的なケースをあげてみた。仮に、英語が分からないおじいさんが日本の地方都市から初対面の日系カナダ人の姪を訪ねてバンクーバーに来たとする。ところが彼女の所属団体だと聞いていた宛先に連絡をすると、今回の当方の様に別のコミュニティ団体だったとしよう。それで、はるばる日本から訪れたおじいさんに「そんな人はこの団体にはいません」と応じるか。それとも「その方なら別の団体ですが知っています、連絡先のEメール(又は電話番号)をお教えします」と応えるだろうか。

 だが相手は「でも渡邊さんは違います。関係者だから団体の区別くらい知らなくては」と、即ちコチトラが、内輪の関係者と部外者(いわばインサイダーとアウトサイダー)の区別をわきまえなければならない、と主張し続ける。

 もしこれが買い物客と商店の主人や店員の関係だったら、お金を使ってくれる客に少なくとも「ありがとうごございます」くらい言うのが普通だろう。だがコミュニティ団体を利用する人とその団体の関係も部外者となると、その人の立場により応答が変わるのだろうか。シンガポール、ロンドンやワシントンではもっとビジネスライクだった様に記憶しているのだが。

 結局<水掛け論>になってしまったが幸いに顛末は、お互いの意見を尊重する(agree to disagree )ということで妥協、少なくとも感情を害することなくEメールの交換は終わった。

もしここで当事者に訊けたら、「いや、ちょっと違う、そうは言わなかった」と仰るかもしれないが、とにかく一介のコラムニストとして意見を述べさせていただいた。

 ところで、もし議論などせずに用事を済ませて、若干の余談でもしていたらお互いに興味深い情報の一つでも聞き出せたかもしれないのが残念と言えば残念だ。まぁ団体組織で要職に務める者には色々と責任もあろう。最後に会社勤めをしたのは18年前のシンガポールの出版社だった当方、その後のバンクーバー生活では自営業とパートタイマーしか経験していない。組織内の責任については忘れかけているのかもしれない。

[文・渡辺正樹]