「朝日」について

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 詩人と同様、投手とはつくられるものではなく、生まれてくるものである(サイ・ヤング)

 野球についての私の最も古い記憶は、私の祖父が私の手をとって、握りを教え、ボールを投げるように促しているシーンです。私は投げようとしたのですが、私にはボールは重過ぎました。確か4歳か5歳頃のことでした。成長してから、ボールを手に取り、縫い目を見つめ、祖父がどこに指をかければいいのか教えてくれたことを思い出して、ボールを投げてみました。投げたのですが、祖父のように思い通りには投げられませんでした。

 幸いなことに、私の家族はスポーツにおいて私よりも優れていましたが、これはバンクーバー朝日の選手の家族の一部でも同様でした。選手たちの表彰式が、8月10日のバンクーバー・カナディアンズの試合の前に、ナット・ベイリー・スタジアムで行われました。

 ジーン・カミムラさんは、彼女の父でキャッチャーであったジョン・ニヘイは、「二人の曾孫を見るまで長生きした」と語りました。そのうちの一人、自分もキャッチャーであるベス・カミムラさんが家族を代表して出席しました。ジーンは、彼女の父親はイギリス人が校長を務める学校のフルタイムの学生であったと話しました。その校長は、「アメリカの」スポーツである野球を軽く見ており、ジョンが休みを取ることを許しませんでした。「交通機関に使うほどの余分なお金も持っていなかったので、父は野球をするためにキツラノのポイント・グレイ・ロードにあるマンション『キラーニー』からフォールスクリークに敷かれた鉄道線路を越えてパウエル球場まではるばる歩いて出かけたんです」と彼女は語りました。

 フランク・ヨシオカさんは、彼の父、トム(ステジロウ)ヨシオカと、伯父でありピッチャーであったハッピー・ヨシオカの代理となりました。フランクさんは以前ピッチャーをしており、彼の孫のジャレド・パワーさんもピッチャーをしています。「家族三世代の選手にわたって、私たち家族は野球の試合への愛を繋ぎ続けているんです。」こうフランクさんは語りました。

 BCスポーツ殿堂のメダルはまた、ロバート・イトウさん(ジュンジ・ジョージ・イトウの息子)、ナタリー・バーホーベン(エド・ナカムラの甥(姪) の娘)、カナオ・スズキさん(ケン・スズキの甥)、ジーン・マツシタさん(ミッキー・テラキタの娘)、ヒロ・ヤナギサワさん(オットー・ヤナギサワの息子)、メイ・オイカワさん(ケンイチ・ドイの娘、そして孫娘である私)にも授与されました。

 成長するにつれ、私は祖父が野球を愛していたことを知りました。それはただ祖父が私にボールの投げ方を教えようとしたからだけではありません。年長者の日系カナダ人の男性たちが私の祖父の記録について語ったり具体的なプレーについて教えてくれたりしたからです。それによると、祖父は一試合で23個の三振を奪うという記録を作りました。私が生まれるずっと前のことでしたから、祖父がプレーしているのを見たことはありませんが、祖父はどういう風に投げるのかは見せてくれました。祖父の投げたボールが、バッターに近づくにつれて落ちるのを見た時にはうっとりとしました。伯父は、その球種はドロップボールというのだと教えてくれました。祖父の持ち球のうちの一つで、投手としての優れた技量に寄与したものだそうです。私の幼い目には、その投球は魔法のように映りました。

 式典の開催に尽力したエミコ・アンドウさんにとって、請求されていないメダルがあることを知った時、選手たちの親族を見つけ出すことは個人的な探索の目標となりました。彼女は「時代を通じた宝物探しのようでした。親族の皆さんと連絡を取り、家族の物語について聞いた時はいつも、彼ら自身の家族の歴史を称えるのに参加している気分になりました」と語りました。

 「カナダ東部と日本に10個以上のメダルを送り届けること、そして残りの親族を探し出すことなど、まだやるべきことはあります。ケンイチ・ドイのように、まだ広く認知されていない朝日の選手たちを見つけ出すことにも胸を躍らせています。」

 展示、書籍、記念銘板、ナット・ベイリー球場の横の絵、そして映画のおかげでバンクーバー朝日についてより多くの人が知るようになりました。昨年、バンクーバー国際映画祭において、これまで数々の賞を獲得してきた石井裕也監督の手による『バンクーバーの朝日』が公開され、朝日は国際的な注目を集めました。チケットの売り切れと追加上映、そして観客賞の獲得が、朝日の物語がより多くの観衆に届けられたことを明らかに示しました。

 朝日の認知に現在進行形で寄与しているのは、以前のパウエル街球場において毎年行われる記念試合です。この球場は、現在は譲渡されていないコースト・セイリッシ族の土地にあるオッペンハイマー公園として知られていますが、ここは最初の朝日チームが1914年から1941年まで、日系カナダ人が西海岸から強制退去させられ、不当にも収容されるまでの間プレーしていた場所なのです。

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 私は8月15日には第10回年次朝日記念試合の開催を宣言し、グレイス・エイコ・トムソンさんの紹介をさせていただくという栄誉を授かりました。グレイスさんは、第1回目の記念試合に参加し、日系ナショナル博物館の朝日に関する展示製作の責任者でもあった方です。

 グレイスさんは私たちに、「朝日」が「日系カナダ人が人種差別社会の中で日々苦闘していた時代」にプレーしていたことを考えてみようと語りかけました。日系カナダ人は投票権を認められず、白人労働者より賃金も安く、映画館や屋内プールなどの公共の場所において隔離され、「一部のレストランでは立ち入りも許されなかったのです。」朝日は、「ここバンクーバーのアマチュア・リーグでプレーする唯一のエスニックのチームでした。」ヨーロッパ系のカナダ人選手と比べ、朝日の選手は小柄で、有名になるまでの間、スタンドや新聞上での差別的な雑言や、審判員の不公平な扱いに耐えなければならなかったのでした。

 「しかし球場では、朝日がやがてグラウンドを平等なものに変えました。朝日は、何年も連続して優勝を勝ち取ることで、彼らが同等であることを示したのです。」

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 今年の記念試合の準備を指導したGVJCCA日系カナダ人青年指導者(JCYL)委員会の共同委員長であるアンジェラ・クルーガーさんは、「私たちがグループとしてエネルギー、勢い、そして強固な繋がりを持っていることを知っていました。だから私たちはこの役割を果たそうと一歩踏み出したのです。ですが、最も素晴らしかったのは、私たちがコミュニティからの助けが必要だと言った時に、すぐさま反応があったことです。」彼女は、人々が笑い合い、笑顔で協力してくれたことについて語りました。「人々にとって、たとえ大人であっても遊ぶことがどれだけ大事なのかということを学ばせてくれました。少なくともこの時は、皆、野球のプレイをしたかったんです。」

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 ヒカリ・ラチマットさんもJCYLのメンバーです。「私にとって実際に野球をする初めての機会でしたが、JC(日系カナダ人)とDTES(ダウンタウン・イーストサイド)のコミュニティの懸け橋となることが大変楽しかったです」と語りました。彼は、バントの構えを見せて人々を驚かせました。彼は、朝日の作戦を真似してみようと考えていたと打ち明けました。朝日の作戦は、ブレインボールまたはスマートボールとして知られる、身長も高く大柄な選手相手に有利に立とうとするためのものでした。「また来年もこのイベントで野球をすることを楽しみにしていますし、今回参加されなかった他の日系カナダ人の皆さんも来年はここを訪れて一緒に野球をしてほしいと思います。」

 「私たちは、自分たちが来年の試合のためのアイデアについて話し合っているのに気づいたとき、まだグラウンドを去ってすらいなかったんです。」アンジェラさんは「より一層、教育的要素を取り入れる」など、いくつかのアイデアについて心を躍らせています。「来年何ができるのか楽しみです。」

 朝日の伝説に没頭した一週間の後、私は、これは単なる野球の試合ではないということをはっきりと認識しました。それは過去を思い出すこと、より良い未来を創り出すこと、人種差別に対抗する道を見つけた人々に学ぶこと、そして人々を繋ぎ合わせることなのです。

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[文:ロレーン・及川 訳:山下健之介]