BC州政府による中国系カナダ人に対する陳謝に寄せて

 当地の「サン紙」、「グローブ紙」などメデイアが報じているように、去る5月15日、ヴィクトリアの州議会でクリスティ・クラーク州首相は歴史的な州の中国系市民に対する差別の政策の誤りを認めて、州議会でBC州の陳謝、すなわち、公式の謝罪を発表し、与野党一致でこれを支持する立場が明らかにされた。州議会で承認された決議のなかで以下のように述べられている。

 「当州議会は過去の州政府によって施行された100件以上の法律、政令、政策が1871年以来、中国系住民に対する差別であったことに謝罪する。」「ブリティシュ・コロンビアがカナダ連邦に参加してから1947年にいたるまで、このような法律、政策などはBC州の中国系コミュニティの基本的人権を否定するものであった。」 

 周知のように、1988年には日系カナダ人に対する連邦政府の陳謝があり、補償を認めた。そして、比較的最近のことであるが、日系人に対する州(2012年5月)および、バンクーバー市(2013年9月)の陳謝も発表されている。

 中国系市民を差別する法律・政令などの中で際立っているのは、中国系移住者に対する人頭税(Headtax)の規定であった。なお、連邦のレベルでは2006年にハーパー連邦首相が人頭税を中国系カナダ人に課したことに陳謝し、人頭税の対象となった本人、その遺族、家族に2万ドルの補償金を認めた。ここで、日系人の経験を念頭におきながら、中国系移住者の歴史的経験を概観しよう。

中国系移住者の経験 

 中国人の移住は1858年に始まったといわれている。当時、中国人はゴールド・ラッシュのためサンフランシスコからフレーザー・バレーに移動し始めた。1860年には中国系移住者の人口は7000人だったといわれ、そのころまでにビクトリアには小さなチャイナ・タウンができていたと伝えられている。 

 1880年代前半には1885年に完成した大陸横断鉄道建設のために数千人以上の中国系労働者が鉄道会社によってもたらされている。当地の歴史家、パトリシア・ロイは1882年の夏にはBC州には1万2000人の中国人が居住しており、その半数が鉄道会社に雇われていた、という州政府内閣委員会の数字を挙げている。(Patricia E. Roy. White Man’s Province: British Columbia Politicians and Chinese and Japanese Immigrants, 1858-1914. Vancouver 1989. P.51.)当時の中国人労働者の賃金は一般労働者の1/2か1/3であった。鉄道建設には危険な仕事が多く、600人以上の死者がでたといわれている。

 中国人の排斥、具体的には移住制限のために1885年に人頭税50ドルが導入された。1900年には100ドル、そして1903年から1923年にかけては500ドルに増額された。この金額を当時の中国系移民の1ドル前後の日当と比較すれば、人頭税は年収をはるかに越える金額だったことになる。この人頭税によって、連邦政府は総額2千3百万ドルを徴収したといわれている。人頭税によるコミュニティへの影響のひとつとして、当時の中国系住民の男女の比率が10対1以上で、男性単身者が多かった。(本国に妻子があっても呼び寄せが困難だった。)

 1923年に人頭税は廃止となったが、その代わりに連邦の「中国人移民法」(Chinese Immigration Act)よって中国人の移住は事実上禁止となった。このような差別にもかかわらず、第二次大戦に数百人の中国系カナダ人がヨーロッパ戦線に従軍している。大戦後、BC州では派遣された中国系軍人に対する選挙権が認められた。

 上述の「中国人移民法」は1947年に撤廃され、同年には連邦、州の選挙権が認められた。しかし、中国人、特に香港や広東省からの大勢の移住は1967年の点数制度の導入以来のことである。

 

日系人も偏見と差別を経験

 日本人の移住の始まりは1877年の永野万蔵の到着とされているが、19世紀末までには主として和歌山県、滋賀県、広島県などを出身地とする移住者が到来している。日系移住者は中国系移住者と同様な偏見と差別の対象となった。両者は共に選挙権を認められず、医師、弁護士、教職などの専門職にも就けなかった。しかし、日系移住者の場合には移住制限のための人頭税は課せられなかった。その理由は日英同盟(1902年-1921年)が結ばれていたこと、日露戦争の勝利、第一次大戦の戦勝国となったことなどから、日本の国際的地位が向上していたためであろう。従ってカナダ政府は一方的な日本人移住の制限を避け、両国政府間の交渉と合意で移住制限を実現しようとしたのである。

 たとえば、1907年の暴徒による日本人町や中華街の襲撃の後、日加間に紳士協定が結ばれ、日本側は一定の移住制限を認めた。それから約20年間、女性の移住に制限がなかったために、大勢のいわゆる写婚妻が来加、当時の日本人移住の主流になっていた。

 1941年12月、日加間のアジア太平洋戦争はパール・ハーバー攻撃と同時に行われた日本軍による当時英領だった香港、マラヤなどへの侵攻に対して、カナダが日本に宣戦布告したことで開始された。

 中国系移住者にたいする「人頭税」と比較できる日系移住者に対する偏見と差別のハイライトは「移動と収容」であった。すなわち、1942年春には、2万人あまりの日系人人口の90パーセント以上が居住していたカナダ西部沿岸からの総移動がはじまった。これは老若男女すべてを対象としたもので、日系人独自の経験であった。しかも当時、連邦政府によって日系人はカナダ各地に分散することを奨励され、大戦末期には政府の分散政策に協力しない者にたいする大戦終結後の「帰国」すなわち送還の政策が打ち出された。この政策により大戦終結の翌年、1946年に約4,000人の日系人が市民権を剥奪された上で日本に追放されている。

 以上のような移動と収容というあからさまな偏見と差別の経験は日系人独自のものであり、少数民族団体やマス・メデイアを含むコミュニティの支持を得て日系人の補償の運動が功を奏した。すなわち、1988年に連邦政府は日系人に対して陳謝し、2万1000ドルの個人補償などを認めた。この補償は中国系の人々に対する補償を含めて、ほかの民族グループなどへの補償問題の前例をなすものとなっている。

 [文・鹿毛達雄]