Warning: include(/www/vhosts/jccabulletin-geppo.ca/root/wp-content/plugins/hyper-cache/cache.php): Failed to open stream: No such file or directory in /www/vhosts/jccabulletin-geppo.ca/root/wp-content/advanced-cache.php on line 24

Warning: include(): Failed opening '/www/vhosts/jccabulletin-geppo.ca/root/wp-content/plugins/hyper-cache/cache.php' for inclusion (include_path='.:/usr/local/share/pear') in /www/vhosts/jccabulletin-geppo.ca/root/wp-content/advanced-cache.php on line 24
こまがた丸事件百周年に寄せて – The Bulletin

こまがた丸事件百周年に寄せて

CANADA POST - 100th-year anniversary - Komagata Maru incident100年前の1014年には世界史にとって重要な事件が起こっている。世界大戦の勃発である。しかし、 ここカナダにとって、特にアジア系のエスニック・グループにとっては、別の意味での重要な年でもある。すなわち、今年は「こまがた丸(駒形丸)事件」の100周年にあたる。そのため、1880年代以降のアジア系の住民や移住希望者に対する偏見、差別を象徴するこの事件が想起されているのである。

 先月、本誌6月号で触れたように1885年に中国系移住者に対する人頭税が導入され、中国人の移住にたいする厳しい制限が始まっている。インド系コミュニテイにとっての歴史的経験は百年前の「こまがた丸事件」である。

事件の概要

 こまがた丸事件は簡単に言うなら、到着したインドからの移住希望者の上陸を認めず、追い返した事件である。事件の数年前、カナダ政府は「移住は直行便によって到着する者に限って認められる」という移民法の規則(枢密院令)を制定していた。この直行便の規則には特定の人種や出身国が特定、言及されているわけではないが、インド系移住者の排除を目的としていることは明らかであった。従来あったカナダとインドを結ぶ直行便航路のサービスは政府の要請で船会社(カナディアン・パシフィック)が廃止していた。インド人、シーク教徒のビジネスマン、グルジット・シング (Gurdit Singh Sarhali)は「英帝国の臣民(subjects)は帝国内を自由に移動できなければならない」という原則に反するこの直行便の規則に挑戦するために、私財を投じて日本の汽船、こまがた丸をチャーターした。そして極東在住のシーク教徒を含むインド人移住希望者を募った。同船は上海、香港などに寄港し、客を乗せながら、主としてパンジャブ地方出身のインド人など376人を、1914年5月23日、バンクーバー港、バラード・インレットにもたらしたのである。

 しかし、カナダの移民官は20人余りの 再入国者を除いて大部分の乗客の上陸を認めなかった。その人たちは船内に足止めされて監禁状態にあり、入国審査のための上陸すら認められなかった。当地のインド系コミュニティは上陸、入国を認めるよう強硬に主張し、弁護費用などに当てるため多額の寄付金を集めていた。しかし、当時の「白人のカナダを永遠に」を主張する世論は概してインド人の入国に反対で、当時の新聞も「ヒンドゥー(Hindu)の侵入」という見出しで同船の到着を報道。政府、移民当局もこまがた丸の乗客のインドへの帰国を主張していたのである。

 当地のインド系住民は弁護士(J. Edward Bird)を雇って、直行便の規則が違法なものであることを認めるよう裁判所に訴えたが、6月28日、法廷は政府の立場を認めて原告側が敗訴となった。そのころまでに船に積まれていた食料や水が底を突いていた。乗客側と移民当局との間に食料などの供給については交渉が成立していたが、移民当局はこまがた丸の出港を命令し続け、乗客側がそれに応じなかった。そこで、連邦政府はカナダ海軍に協力を求めた。その結果、BC州、バンクーバー島、エスクアイモルトの基地に停泊していた西部カナダでは唯一の軍艦、巡洋艦「レインボウ」が出動し、バンクーバー港に現れ、こまがた丸の近くに停泊。その直後の7月23日に、こまがた丸は同艦にエスコートされながらインドに向けて出港したのである。

 事件はこれで決着したわけではない。同船が目的地のカルカッタに到着したとき、当時インドを支配していた英帝国の官憲が指導者として乗船していたグルジット・シングを逮捕しようとした。それがきっかけとなって暴動が起こり、官憲の発砲によって20人の死者がでた。そして多数の人々が逮捕された。

 この事件の後、第二次大戦後までカナダにおけるインド系の人口は停滞していた。しかし1960年代になって、出身国や人種に関係なく点数制度による移住が認められるようになってから、中国系と並んで、インドを含む南アジアから大勢の移住者が入国、定着するようになったのである。

事件は過去のものとなっているか?

 比較的最近、2008年8月、ハーパー首相がインド系市民の集りで、こまがた丸事件に関する陳謝を表明している。また最近、事件の百周年にあたって、カナダ郵政局は記念切手を発行している。(イラスト参照、中心の人物がグルジット・シング)このような事例から多文化主義を国政の基本とする現在のカナダは、こまがた丸事件が起こった100年前とは違い、異文化や少数民族に対して寛容な社会になっているように見える。しかし、こまがた丸事件は本当に過去のものになったと言えるだろうか。

 4年あまり前のことだが、2010年8月に子供や女性を含む492人のタミルの難民がスリランカから3ヶ月の航海の末、BC州に到着したことがある。この人たちを「非合法難民」、「犯罪者」、「テロリスト」、難民申請の「順番待ちの列を乱す者」などと見なす狭量な世論の高まりの中で、到着した難民たちは女性や子供を含めてバンクーバー近郊の三箇所の収容所に身柄を拘束されたのである。そしてさらに現在でも、外国人労働者に関する規則(Temporary Foreign Workers Program)によって、多くの場合、最低賃金によって軽食堂などに働く外国人は雇用が契約期限に達した時、永住権の申請を認めらられず、 帰国を余儀なくされている。  

 この規則に従って入国した外国人労働者の大部分がアジア系の有色人種に属しており、事実上の人種差別が促進されていると言えるのである。従って私たちは100年前の事件を想起して、現在の、そして将来の移住者、難民に対する政府の政策や世論の中にある人種的偏見・差別などの人権侵害に警戒し、それに反対しなければならないのである。

 なお、本誌掲載のロレーン・及川氏のレポートに記されているように、去る5月23日、当地ではインド系をはじめとするコミュニティの諸団体や関係者が参加して、こまがた丸事件記念の晩餐会が催されている。

[文・鹿毛達雄]

編集部より:誌面で題名に誤りがありました。正しくは、「こまがた丸事件百周年に寄せて」です。