“Otherness”とどう向き合うか マイノリティの連帯が差別を防ぐ

Minority. Forum.1995.10cm

1995年11月、UBC人類学博物館で演奏する在日コリアン代表の趙博(チョー・パギ)さん。現在も大阪を拠点に弾き語りに演劇、執筆と多岐にわたる活動を続けている。日系ボイス1995年年末号 (Photo: Randy Enomoto)

 先日、シリア難民受け入れをカナダ政府に要求する集会に参加した。若者たちはどしゃぶりの中を“No One is Illegal”と叫びながら行進した。カナダが人道支援として、紛争終結まで最低限の生活を保障することくらいできないはずはない。濡れ鼠の体が震え出したので早々に帰宅したが支援は続けたい。人権擁護とは、畢竟、徹底して弱者の側に立ち続けるということなのだと思う。「だが、どこで線を引くのか」と問う人は、既に「他者」になっている自分がそこにいる。

●誰が誰に石を投げるのか

 1988年冬、トロントに移住して2年目だった。家の窓に雪玉が飛んできて炸裂した。ドアを開けると、学校帰りの子供たち5、6人が屯して、こちらを目掛けて雪玉を投げている。 “Cut it out!”と怒鳴ったのが火に油となり、「Come on, little fat man!」と 叫んでこちらを挑発してきた。その時の戸惑いと驚きは忘れられない。ここは、本当にカナダなのか?このガキどもはどこから来たのか?よくみると、裏の家の子も混じっているではないか。よく遊びに来て、うちの2歳の娘と遊んでいた金髪の女の子だったが、じきにピタッと来なくなっていた。妻が問いただすと、母親にあの家には行くなと言われたという。

 雪玉は冬中我が家を悩ませ続けた。春になって雪が融けると、一抱えもある岩を持ってきて裏庭に投げ込み始めた。隣家の高校生が見かねて追い回して、このイタチごっこは終った。何故うちがこのミニ暴動の標的にされたのか。 思い当たる節は、道の両側100軒の中で、おそらく2軒だけの白人と東洋人のインターマリッジの1軒だったということくらいである。

 興奮に頬を染めて叫ぶ子供たちを見ながら、かつて自分も同じようなことをアイヌの子供にしたことを思い出して愕然とした。幼稚園の頃、親戚の住む余市の河原で、みすぼらしい身なりの子供を従兄たちに混じって囃し立てていた。カナダでのマイノリティとしての被差別体験が、日本では差別する側にいた記憶を呼び起こしたのである。

 90年代初期になって、白人労働者が多く住むその地域には、ネオナチ団体の本部があることを知った。地元の高校教員が生徒を勧誘してネオナチ運動に巻き込んでいたのだ。暴力沙汰が頻発した。ある時、反ネオナチ側の生徒、教員たちの集会を取材したことがある。学校内でもナイフなどで身を守らなければならないという。教員は「何故、話し合おうとしないのか」と諭そうとするが、生徒は「もう、そんな段階ではない」と反論する。ネオナチたちは市役所前でも鉤十字の旗を翻して気勢を上げる。反ネオナチの若者たちが妨害に入る。騎馬警官がそこへ割って入った。そんな写真がトロントスター紙に掲載されていた。

 90年代中期、先住民の儀式を実演するネイティブのチーフと一緒に、かつて住んでいた東区の小学校を訪れて驚いた。廊下の壁に漢字のカードがたくさん貼られ多文化主義が強調されていた。先住民の儀式の実演には、あの裏の家の子の顔もあった。

 1989年に人権擁護推進を使命とする日系紙編集者として雇われて20数年。人種差別反対運動と日系史を通じて、カナダ史には絶えず多数者と少数者の相克があったことを知った。下層労働者は新移民の台頭に怯える。彼らを排除し、自分の生活を守る闘いは「正義」だと主張する。

 1907年のバンクーバー暴動。反アジア人連盟の集会には、日系人と実業家で前BC州知事のダンズミューアを型どった二つの藁人形が吊るされたという。その20年後、日系労組がBC州労組に加盟した。やっと同じ労働者として共闘すべきだという認識を獲得したのだ。では、人種差別も軽減したということだろうか。労組リーダーの吉田龍一は否定的だ。敢えてこと上げする必要がないほど、制度的差別が定着していたからだと語っている。

 背景に、日本を取り巻く世界情勢、とりわけアジアでの武力行使に対する反感が北米にも及んでいたことがあるが、日系史が指し示しているのは、人種差別意識はいつでも潜在的に人間の皮膚の下にはびこっているという事実だ。少数者たちが連帯し警戒すべき理由がここにある。 

●日加のマイノリティが揃った会議

 1995年11月、バンクーバーJCCAが主催して「少数者会議」が開催された。人権問題に詳しい明学大の辻信一教授と三世ロイ・ミキが中心となり、デビッド・スズキが基調報告をした。

 3日間にわたり、日本とカナダのマイノリティが自文化を紹介し、共通の課題を討議した。日本からは、アイヌ、沖縄人、在日コリアン、被差別部落民の代表が出席した。カナダ側から日系、中国系、韓国系、アフリカ系、先住民の代表がパネルに並んだ。以来、NAJCは継続してカナダ先住民やモスリムに対する差別政策に反対してきた。

 その後の日本側の変遷を見てみよう。アイヌは2006年にやっと政府が先住民であることを認めて文化保護を開始した。被差別部落問題は島崎藤村が「破戒」(1905)でタブーに挑戦してから百年経つが、差別は日本風土に染付いている。元自治大臣の野中広務は、自ら部落出身だと公言する。だが、その知名度ゆえに、一緒に出歩くと、部落民に対する侮蔑の視線を浴びせられるから嫌だと家族に言われたと肩を落とす(「差別と日本人」2009年刊)。

 沖縄人は、沖縄決戦以来70年経つ今も、本土政府からの差別は続き、米軍基地問題は増々混迷の度合いを深めている。また、在日コリアン60万人は、明治以来、日本と朝鮮半島の政治変動に翻弄されてきたマイノリティだ。2002年から続いた「韓流ブーム」は、2011年、歴史教科書の領土に関する記述と歴史認識問題が巻き起こした「反韓」の嵐に一掃され、日韓関係の悪影響が在日たちを直撃している。2007年、カナダ連邦議会は、日本は戦争責任問題と真摯に向き合うべきだとする提言を採択しているが、日本側からは何の返答もなかった。

 1994年、トロントでは NAJC主催で「性差別意識に関する会議」が開催されていた。この時、初めて同性愛者がカミングアウトして体験を語り、日加両国の女性差別問題を議論したのである。こういったコミュニティ内部の他者(Otherness)と向き合い、彼らから学ぼうとする試みはその後あっただろうか。

 2009年、バンクーバーで「日系人の顕彰」会議があった。翌年、トロントでも同様の試みがあった。以来、日系社会はシニアの声を掘り下げ記録に遺すことに力を注いできた。だが、これに反して人権問題への関心は希薄になったような気がするのは、僕だけだろうか。

[文・田中裕介]