《戦後70周年》 ♬♫ 僕らの名前を覚えてほしい…戦争を知らないジジイたち♫♬

 先日、ある移住者宅のホームパーティでのこと。皆ほろ酔いかげんになった頃、ある三世が「ちょっと興味があるのですが、あなたたちは日本とカナダが戦争になったら、どちら側に付いて戦いますか」と問いかけてきた。意地の悪いことに、彼はまっ先に僕を指名した。「どちらにも付きたくないな」と言うと、「いや、その選択肢はないことにする」という。 次に、70代の移住者に同じ質問をした。そのシニアは「僕は迷わない。カナダのために戦う」と勇ましい。「そうだよね、年金たっぷりもらっているしね」とまぜっかえされた。

 そこに移住者女性もいたので、僕は「あなたは子供を戦場に送りますか」ときいた。返事に窮して「んーと、子供に決めさせるかも」と言う。やれやれ、手塩にかけて育てた子供を、戦場で犬死させるつもりか。しかも、彼女の子供は日加両方の血を持つ国際児なのだ。

●「二者択一」は破滅の論理

 この質問はとても危険な遊びだと思う。僕は、第二次大戦中、米兵として戦場に赴くか、それとも日本に「送還」かという選択を突きつけられた時 、両方に「ノー」と言って拘置所へ向かった日系アメリカ人がいたことを話した。戦後のリドレス運動の中で、彼らこそ真の人権思想の持ち主だとされ名誉回復を勝ち取った。

 そもそも、人種の色分けで同国人を強制収容し、他に選択肢を与えずに敵か味方かの二者択一を迫るやり方は、国民を戦争に駆り立てる支配者のやり方だ。上記のシニア移住者は気軽にこの「もしも」遊びに応じたつもりなのだろうが、一度この二者択一の論理に与してしまうと、現実にその状況に臨んだ時に当然のように、この思考回路が働くのではないか。

 1930年代の日本の政府指導者は、このやり方で国民を戦争に追い込んでいったように思う。いま日本では戦争を拒否する姿勢を「利己主義だ」だという風潮さえ出てきた 。国際紛争の解決手段として武力は用いないと言明した憲法九条の精神が、今あぶない。

 日系カナダ人の歴史に即して言うと、 カナダ政府は、日系人の兵役義務を予め剥奪した上で、戦争勃発と同時に全員を強制収容し且つ国外追放しようとした。確かに当時と今は状況が違う。だが、今も人種差別の前では市民権の有無が意味を持たないことが起きている。理由もなくテロリストの嫌疑をかけられ、過酷な取り調べを受けているモスリムたちの憤りを思えば、「どっちに付きたいか」という設問自体が無知で愚劣な戯言であることが分るだろう。教訓として、日加の架け橋たる日系人は、戦争には与しないという姿勢が求められているはずだ。

●自ら欲して戦争捕虜になった人たち

Rocky

「銃殺の時近づけりもののふのごとく死なんとわめく狂人あり」。これは有賀千代吉著「ロッキーの誘惑」の中にある短歌で、「狂人」とは、開戦と同時に逮捕された40人の一人で、取り調べ中に精神異常を来した仏教会のM開教使のことである。取り調べが進むにつれ 「明日銃殺される」と夜中に泣き喚くようになり、病院に移管された。過酷な状況下で起きた悲劇だが、取調官からすれば「銃殺される」ほどの諜報活動を裏で行っていた証左と見たかもしれない。

 一方、 ヘネー日本語学校の校長で、キリスト教の牧師でもあった有賀さんは、冷静に自分と周囲を見ていたようだ。ヘネーは独自に農業協同組合を運営している日系共同体でカナダへの同化志向を明確にしていた。有賀さん自身20年にわたり同化に尽力してきたことを自負しており、取調官に「なぜ僕のような人間を逮捕したのだ」と逆に詰問してもいる。「お前は日本語校長で、ビッグマンだから」というのが答えだった。

 あらためて不思議だと思う。では、 日本領事館の業務代行をしていた日本人会の「ビッグマン」たちが逮捕を免れたのは何故なのか。

 取り調べ後、全員がアルバータ州バンフ近くの風光明媚なシービー捕虜収容所に移管された。そこへ更に13名が連行されてきた。彼らは英雄気取りだったという。だが、じきに「話がちがう」と文句を言い出した。彼らが自主的に逮捕されてきたのには理由があった。捕虜になると、毎日1ドルもらって一流ホテルに住み、美味しい食事にゴルフ三昧の生活ができ、戦後は(日本が勝てば)一人35万円の賠償金をカナダ政府からもらえるはずだ、という噂が飛び交っていたからだ。「ロッキーの誘惑」という本の題名の由来だ。著者の有賀さんは、皮肉を込めて愚かな日系社会と愛国主義者たちをこう呼んだようだ。

 1942年1月、西海岸のイーストバン岬が日本の潜水艦の砲撃を受けたと報道された。被害はなく真偽も定かではないが、カナダ政府を縮み上がらせるには十分だったはずだ。翌月、強制収容が決定された。

 「強硬派」と呼ばれるこういった皇国の徒たちは、概ね終戦までアングラー収容所で毎日「東方遥拝」して過ごした。 川尻岩一さんは全日系人の「半数は強硬派だった」と語っていた。カナダに遺留することを選んだリーダーの川尻さんを「日本に対する忠誠心はないのか」と恫喝したのもこういった輩である。

 有賀さんは自著の中で、明治以降の日本がおかした最大の過ちは、天皇を東京の皇居に移したことだという。そこで天皇は神格化され、「国民は自分で思考することを止め、上からの命令に従うだけになってしまった」。民間人、兵士を問わず、外国人捕虜に対する残虐な取り扱いも、命令に盲従する思考停止の結果だったと見ている。一方、カナダで戦争捕虜になった日系人たちは、柔道や趣味に興じるなど、強制労働や暴力など一切ないジュネーブ条約に基づく捕虜生活を送った。

●平和の唄を口ずさみながら

 「戦争が終って僕らは生まれた…戦争を知らずに僕らは育った」(北山修作詞杉田ジロー作曲「戦争を知らない子供たち」1970年)。その通りである。それは、二度と戦争は嫌だと「憲法九条」を受け入れた戦中世代に守られていたからだ。だが、同時に70年間の平和は、多くの国民から批判力や民主主義の主体であることの自覚を奪ってしまった。これは有賀さんが 「批判力を失い、国家の分子として自主的に生きることを拒んでしまった」と指摘した帝国臣民の世代と符牒が合う。

 有賀千代吉さんは 「デモクラシーとは他人に迷惑をかけないこと」という言葉で自著を結んでいる。簡明にして名言だ。デモクラシーとは他国に迷惑をかけないことでもある。僕は名曲「ハナミズキ」の歌詞になぞらえて結びたい。戦争を知らないジジイたちの、我慢がきっと実を結び、平和な日本が百年続きますように…。

[文・田中裕介]