鳳仙花

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 2年前から韓国系の若者たちにまじってトロント・コリアン映画祭(TKFF)にかかわっている。今年4回目を迎えるTKFFは、公的援助金はなく、資金の全てを寄付や広告、入場料でまかなっている草の根の映画祭だ。その自立心と心意気に惚れてしまったのかもしれない。「組織とは距離を置くべし」という物書きの自戒をやぶって、「広報係」を務めている。
 元々、日本に60万人いる在日コリアンたちを描いた、 いわゆる「在日映画」をカナダに紹介したいと持ちかけたのがきっかけだった。醜悪なヘイトスピーチに日々曝されている彼らの立場を共有できるはずもないが、日本で生まれ育ちながら、在日のことを恥ずかしいほど知らなすぎたという悔いを、今晴らしているのかもしれない。 繊細さと強靭さを併せ持つ彼らから学ぶことは多い。以下は、韓国系メディア用に書いた「在日」に関する拙文の和文版である。

鳳仙花がはじける時
 1994年春、日系コミュニティ新聞の日本語編集者をしている僕に、投書が舞い込んだ。差出人は見知らぬ韓国語の名前だったが、文章は日本語で書かれてあり、祖母への愛のこもった切ない内容だった。 (以下は日系ボイス1994年4月号から抜粋)

「鳳仙花」
 今年も庭の花壇のあちらこちらに、鳳仙花の芽が地面を埋めつくす季節がやってくる。名古屋の小学校に通っていた頃、私は祖母から「鳳仙花を見かけたら、少しもらって来ておくれ」と頼まれたことがある。
 在日韓国人一世の祖母は髪を後頭部に丸めて結い、白金の長いかんざしを真一文字に刺し、夏にはいつも白い麻のチュマチョゴリを来て、立て膝をつき、子供の前腕ほどもある長いキセルで煙をくゆらしていた。祖母は私たちが家の中で日本語を話すことを喜ばなかった。でも、孫娘であり、在日二世である私の友達はみんな日本人だった.取りわけ隣家の娘の「ハッチンデベソ」こと、初子とは大の仲良しで、裏の池に一緒に落ちたほどの仲だった。祖母は我が家の「韓国大使」でもあったが、幼い私の目には頑固の化身としか映らなかったことも確かだ。母のことは日本語で「おかあさん」と呼んだが、祖母のことは「ハルモニ」と韓国語で呼ばねば承知しない人だった。
 その祖母がポンスワ(鳳仙花の韓国名)の花がほしいと言う。幼な心にも、その花を接点として「祖母と親しくなれる」と感じた私は、嬉しくて祖母の目を見つめた。母以上にそんな祖母が私の誇りであったのは、本当に不思議なのだけれど、私はポンスワの花がどんな花なのか知らぬまま,いろいろな花を摘んで来ては祖母に見せた。どれを持っていってもいつも違っていてがっかりしたものだが、ある日とうとうポンスワを学校帰りに見つけて祖母の望みをかなえることが出来た。 
 祖母は、格別喜ぶ様子は見せなかったが、「娘時代、韓国ではよくこうしたものだよ」と言って、老いて節くれだった指で、その水気を含んだやわらかな紅の花びらをもんで、硬化した指の上に乗せてから、糸で指先にくくりつけて眠った。翌朝、ツメは桜貝のように薄紅色に染まっていた。若くして未亡人となった祖母は娘時代の思い出の一コマを日本の地で再現し、長い一日を自ら慰めていたのかもしれない。私が十三歳の時、祖母は韓国の釜山へ帰郷したまま、再び会うことはなかった。念願通り、祖母は祖国の土と化したのである。祖母は満足だったかもしれないけれど、私は祖母に思いを残すことが多々あって、いつも鳳仙花を眺めながらため息をついている。
 「ポンスワや祖母をうつして咲きにけり」

* * * 

 手紙の主は名古屋で生まれ育った在日コリアンで、現在はトロントに移住しているらしいことは文面から分った。でも、いつどんな理由で移住してきたのか等、知りたいと思った。そこで、掲載許可をいただきたいこと、更にいくつか確認したいこともあるので、連絡いただきたい旨の手紙を出した。念のために、僕の自宅の電話番号も添えておいた。
 するとある日、自宅に電話があった。事務所に電話したがまだ来ていないと言われたという。そうなのだ。その頃は仕事が手につかない状態だった。妻と壮絶な口論を毎日のように繰り返していたのである。一旦は落ちついたかに見えた。何とかやり直そうと二人で話し合った。ところが、そこへある男から妻に手紙が舞い込んで来た。手紙は開封されたまま、あたかも僕に「読め」と言っているかのように、テーブルの上に投げ出されていた。 読み始めて仰天してしまった。あんなに震えながら文章を読んだことはない。また元の木阿弥。どなり合いが続いたのである。
 ある時、耐えきれなくなって、朝、車で家を出たまま延々と気が済むまで走り続けたことがあった。桜の季節だった。運転しながら狂ったように大声で歌い続けた。 “Let’s give them something to talk about….how about love!!”
 数時間後、ハイウェイ69 沿いの鮮かな緑と花々が徐々に気を落ち着かせてくれたようだ。気がついたらサドベリーだった。湖のほとりでぶらぶらするうちに、子供たちの寝顔が見たくなったので引き返すことにした。そんな繰り返しの日々だった。
 そんな口論の最中に、この方から電話があったのだ。立ったまま受話器を耳に当て、彼女の幼い頃の話を聴いた。
 Fさんが十三歳の時に、祖母は先祖の墓参りをしたいと言って韓国に旅立ち、そのまま消息を断った。実はその時、祖母の息子、つまりFさんの実父を伴って行ったのだった。つまり、Fさんは一度に祖母と実の父を失っていたのである。彼女は成長して子供ができた。その時に思ったという。私の子供に、私と同じような寂しい思いはさせたくない、この子には父親が必要なのだと。そして、縁あって日系人と結ばれ、カナダに渡ってきたのだった。
 受話器を置いた時、自分の中で何かが、例えば鳳仙花が音もなく弾けたように、変わっていることに気づいていた 。しばらく泣いていた。おもむろに妻のもとに戻り、謝った。父親として失格だった。僕はその電話の直前まで、離婚して日本に帰る決心を固めていたのである。 気持ちは既に清々していたほどだった。ところが、子供たちがこれから歩むことになるであろう、父のいない人生については、まったく考えてはいなかったのである。
 あれからもう20年経ったことに、今、気がついた。昨年、子供たちは大学で各々MAとBAをとって卒業した。妻とはあの7年後に離婚した。いや、二人とも人間関係学科を「卒業した」といっていいかもしれない。一方、この間に国際結婚をしていた二人の親友が自殺して逝った。彼らは夫婦関係から「卒業しそこねた」のである。
 あの時のFさんの投書と電話、彼女の生き方は、その後の僕に極めて大きな力を授けてくれたと思う。他者の目を恐れず、現実をそのまま受け入れながらも、それに屈することなく歩み続ける力である。多くは望まず、森の中を行く象のように・・・。

[文・田中裕介]