移住者ジャーナリスト 故・菅原安信さんの三回忌を迎えて

日系ボイス2006年2月号掲載記事。バンクーバー・ロブソン通りの居酒屋にて(撮影・田中)

日系ボイス2006年2月号掲載記事。バンクーバー・ロブソン通りの居酒屋にて(撮影・田中)

 迂闊にも、バンクーバー在住の菅原安信さんが2013年3月24日に亡くなったことを長く知らなかった。一年半も経ってから、「札幌のカムバック・サーモン運動終了」という記事(朝日新聞2014年11月2日号)を読んだ時、1970年代にTVキャスターとして推進したこの運動を、誇らしげに語る菅原さんの姿が甦ってきた。それが虫の報せとなって、偶然開いたブルテン誌の訃報で知ったのだ。
 すぐに、奥さんのおほみさんに電話して無沙汰をお詫びしたが、最愛の伴侶との突然の別離が、いまだにどこか信じられない様子で、「帰って来てドアを開けると、まだ『おかえり』という声が聴こえてくるような気がします」と声を落とした。享年81歳だった。それでも一時間ほど話すうちに、夫が遺した夥しい数の聞き取り調査のビデオテープを、「何とか整理したい」と前向きに抱負を語り始めてくれた。ほっとして受話器を置いた。
 安信さんは「日系人の歴史を大切にしてほしい」と何度も語っていた。そして、元北海道テレビ(HTB)のニュースキャスターとしてのキャリアを活かし、独自に日系人にインタビューしていたのである。 抽き出し二段にいっぱいテープを遺したまま逝った。その整理は、おほみ夫人に託された。
  歴史の「血脈をたどる」という言葉をよく使っていた。思えば、かつて地元 で取り組んだ豊平川に鮭の遡上を復活させる運動も、日系史の聞き取り調査も全て「血脈をたどる」ことに他ならない。 でも本人には深刻さは微塵もなくて、僕が西海岸に赴く度に、出向いて来てごちそうしてくれた。きっと、おしゃべりと酒好きは「職業病」で、同病相哀れむだったのだろう。

●バンクーバー語りの会
 菅原安信・おほみ夫妻とのかかわりは、1999年に遡る。 聞いたことのない「バンクーバー語りの会」から連絡を受けた。8月のパウエル祭で演じる朗読会で邦訳「ほろ苦い勝利」(マリカ・オマツ著)を使いたいが、ついては使用許可をいただきたいという申し入れだった。訳者(田中)は「光栄です」と快諾した。
 その「バンクーバー語りの会」の主宰者が菅原夫妻だった。夫は「ヒゲの安信」で知られるHTBの元ニュースキャスターで、妻もアナウンサーとして活躍し、引退後の1993年に移民してきた 。シルバー移民である。
 そして、朗読「ほろ苦い勝利」は10年後に、トロントの「語りの会」が企画した 「朗読会」で再演された。わざわざ自費で駆けつけて、おほみさんが朗読し、安信さんがラジカセで効果音を流して模範を示してくれた。豪華なゲスト陣に皆で感動した。その後も僕の仕事を応援し、いつも気にかけてくれた。

日系ボイス2009年6月号掲載記事。左から菅原安信、その手前がおほみ夫人。「あれはとてもよい 思い出になっています」と、おほみさんはトロントへの小旅行を懐かしげに語る。

日系ボイス2009年6月号掲載記事。左から菅原安信、その手前がおほみ夫人。「あれはとてもよい
思い出になっています」と、おほみさんはトロントへの小旅行を懐かしげに語る。

● 「水安丸百周年」イベント
 2006年10月の「水安丸百周年」でも大活躍した。及川甚三郎の末裔たちを宮城県まで夫婦で訪ねてイベントの意義を説明し、カナダに招聘した。 式典では、ライオン島などを巡るボートの上でマイクをとり見事なガイドぶりを見せた。
 一度、菅原さんに乞われてこの準備委員会に出席したが、そこで見た菅原さんのいらだちぶりが忘れられない。せっかく日本から寄贈してもらった及川家伝来の遺品である。誰が責任を持って保管するのか等、曖昧にしておくのが辛そうだった。日本語が不十分な二世たちとの意思疎通の困難さもあっただろう。
 その会議で話題になったのは、二世の言う「suzuko」で、「筋子」のことだ。宮城出身の甚三郎たちは、東北なまりの鼻濁音で「スンズコ」と発音した。だから二世たちにとっては、「筋子」は「suzuko」でなければならない。「それは違う」と言っても聞き入れない。結局、日本語表記は「スズコ(筋子)」とした。僕らが反論しなければ、カナダでは「suzuko」が「salmon roe」を意味する日本語としてそのまま使われていただろう。民間博物館運営の難しさが垣間見えた。
  菅原さんの姿勢には過去、現在、未来がどう繋がっているかを探るジャーナリズムの基本が貫いていた。「我々(移民)は何を求めてカナダに来たのか。甚三郎と重なり合うものがあるのではないか、そこのところを皆で考えるイベントにしたい」と語ってくれた。(日系ボイス2006年2月号)

●カムバック運動の仕掛人
 冒頭に掲げた鮭の運動終了の記事は、毎年遡上する千匹あまりの内訳が、放流した鮭が30%、残りは野生の鮭であることが判明したと伝えている。そして今後は 稚魚の放流を減らし 、自然繁殖を促してゆくことになった。既にカムバック・サーモン運動は豊平川を嚆矢として、全国に広がっている。環境改善のシンボルとして発展し、定着したのである。
 一級河川の豊平川は、戦前から飲料水、水力発電などに使われ、戦後は下水道として酷使されて鮭の遡上は途絶えたままだった。 1970年代に入って、市民が立ち上がった。英国テームズ川での汚染浄化運動がヒントとなったという。菅原さんは、一歩踏み込んで「カナダではBC州水産局と教育省が協力し、スポーツフィッシングも絡めて子供の教育に利用し。ている。 鮭は食べるだけではない。心を育ててくれるのだ」と訴えた。テレビを通じて盛んに「仕掛けた」という。こうして、二世マサコ・フカワや日系カナダ人とのかかわりが出来た。
 そして、1981年、マイクを持った菅原安信さんが豊平川の現場から、「これは夢ではありません。現実なのです」と興奮して伝えたニュースは、1950年代に一度汚染で死んだ川が蘇生した瞬間だった。更に30数年を経て、稚魚放流削減のニュースは、川が野生の「血脈」を取り戻した証となった。「仕掛人」の安信さんはきっと黄泉の国で喜んでいるに違いない。そしてこれからは、ご家族の仕合せをあちらから「仕掛け」続けてほしいと思う。

[文・田中裕介]