トロント近郊の公園と学校に日系人の名
By 田中裕介
●カナダの自然を映すアート展
10月28 日から3日間、鳥取県境港市役所内で「北極のクリスマス」と題された小さな展示会が催された。 トロント在住でイヌイットの壁かけ収集家として知られる岩﨑晶子さん所蔵の20点と、 2005年に93歳で死去した鳥取県出身の アーティスト・濵田花子さんの押し花カード数十点が展示された。
カナダ先住民の壁かけと日系一世の押し花という組み合わせは、一見奇異に見えるかもしれない。これは、晶子さんが境港市から壁かけの展示を依頼された時に、友人の花子さんの親戚が同市役所に勤務していると知ったことに始まる。 1892年以来、境港は多くの移民をカナダへ輩出してもいる。「この機会に花子さんのアーティストとしての素晴らしさを、地元の人たちとシェアしたい」とこの企画を思い立った。
70年代に、右も左も分らずトロントに移住して来た移住者にとって、濵田花子さんは良き相談相手だった。お世話になったという人が多い。また長男・淳さんは、 1973年にバンクーバーで隣組を立ち上げた人として知られている。戦前は日系人一万人が居住したパウエル街の日本町だが、戦後この界隈に戻って来たのは概ね身寄りのない一世だった。街並は寂れ果て、言葉の壁のため、彼らは孤立していた。淳さんは公的資金を申請し、移住者と協力して支援活動を始めた。
一方、収容所を出て、1946年に移り住んだトロント近郊の果樹園(林檎・苺)の一角で、花子さんは日々の生活の中から俳句を紡ぎ、野生の草花を摘んで押し花カードを作り続けた。また、濱田梛女(なぎじょ)の名で 山口誓子の主宰誌「天狼」に投稿し、作品を自著「雪野」に収めている。自然体で生き、土と親しむ生活の中に叙情を見いだして言葉と形にしていった。
晶子さんは「花子さんの押し花アートはシンメトリーに拘らない生け花の感覚がある。一生お花と遊び続けた賢い人だった」と語る。 またエコノミストの夫・岩﨑力さんは 、「花子さんのような人が、勲章をもらうべきなのだ」と生前に漏らしていたという。
古代から、日本では農民から天皇まで全員が平等に詩人たり得た。移ろいゆく四季と生の営みが、短歌、俳句の定型の詩韻となって受け継がれてきた。俳句の季語とは、自然に備わった美を誘い出す<呼びかけ>の言葉なのだろう。
「オタワの画廊で偶然出会った不思議な壁かけ」を端緒に30年間イヌイット工芸品を収集し、岩﨑晶子さんはそのうちの119点を自著「イヌイットの壁かけ」( 暮らしの手帳社・2000年)に収録した。 以後、網走の北方民族博物館の協力を得て、各地で展示会を開いてきた。イラストレーター・安西水丸は「絵を描くことの神髄がここにあり、温かさと愛情がある」と評している。
●オンタリオ州から境港を見晴るかす「家族」像
2012年、境港市はカナダ移民120周年を祝った。発端となったのは、2010年にオンタリオ鳥取県人会が出版した「Tracing Our Heritage to Tottori Ken Japan」という本だった。
それによると、トロント郊外のブランプトンへの再定住の先鞭を付けたのは、1945年12月にやってきた寺本さん一家だった。電気も水道もないあばら屋からの再出発だった。地元の小学校の教員となったミツコさんは、引退まで 42年間地域のために尽くした 。ピール地区教育局長は「生き残ったのではない、打ち克ったのだ」と彼女の功績を讃えた。
2013年、ブランプトン市は、環境教育を重視する新設の中学校にデビッド・スズキ博士の名を冠した。更に併設された公園に、「パイオニアとして地元の発展に寄与してきた寺本家の名前をいただけないか」と打診してきたという。こうしてテラモト・パークが完成し、一角に「FAMILY・家族」と題された彫刻が置かれた。この含意は深い。身ぐるみ剥がれ、石もて追われる如く移動して来た日系人にとって、唯一の財産は「家族」だったからだ。
文筆家の晶子さんは故人を偲ぶ記事(日系ボイス2005年11月号)に、辞世の句ともいえる一首を「雪野」から 引用し、「花子さんはいつも家族を思っていた」と結んでいる。
「己が灯をもやしつきたる砂蛍」(濵田梛女)
[文・田中裕介]