<追悼>「ハーレムの母」と慕われた日系米人二世 ユリ・コウチヤマ(2)

 1960年代、北米も日本も社会全体が「闇鍋」と化してふつふつと煮立っていた。東西冷戦、60 年安保、ビートルズ現象、ベトナム戦争、人種差別反対運動、民族自決運動、水俣病。未曾有の経済発展と広がる貧富の差。 学生たちは煮えたぎる鍋から生煮えの「問題」を口に放り込んで、無理やり咀嚼しようとしていたような気がする。

 僕にとって激動の60年代は、小6の時の「ケネディ大統領暗殺事件」(1963年)で始まった。その日、担任の川上先生が教室で悲報を伝えると、級長の傑(すぐる)ちゃんがいきなり机に突っ伏して泣き出した。前年に起きたキューバ危機の緊張感は小学生にまで伝わっていたようだ。思えば、札幌市内の僕らの学区は、ソ連を仮想敵とする北部方面自衛隊駐屯地の直ぐ横で、生徒の中には隊員の子供もいた。
 翌年 、ジョンソン米大統領が発表する北爆開始の「至上命令」でベトナムは泥沼と化した。米軍発表の「北ベトナム軍が仕掛けてきた」というトンキン湾事件は、実は米側の「誤認」だったと、30年後になってマクナマラ長官(当時)が告白した。
 また、 キング牧師が率いる人種差別撤廃運動が実り、同じ年に「公民権法」が制定されてもいる。実に、奴隷解放令が施行されてから100年を経ていた。だが、これは差別の火に油を注ぐ結果になった 。4年後、キング牧師は白人の凶弾に倒れた。その秋の高校文化祭で、僕らは顔を黒く塗って「勝利を我らに」を唄いながら行進した。それが、ささやかな僕らの平和運動だった。

●ハーレムの日系人

 1946年、ユリとビル・コーチヤマはNYで結ばれ、そのままハーレム地区に居を構えた。やがて六人の子供たちも含めて、人種平等を求める公民権運動にのめり込んでいった。1957年、南部アーカンソー州リトルロックでの黒人高校生の人種隔離反対行動が端緒となった 。それから50年後に黒人が大統領に就任するなど、誰も予測しえなかった時代だ。ユリとビルは「泊まるところが必要な人に自宅を宿として提供する」のを常としていた。
 1955年、広島で被爆した「原爆乙女」と呼ばれる女性たち25名が、民間の援助で顔の整形手術を受けるためにNYにやってきた。ユリとビルは自宅を開放して歓迎会を開いている。また、1964年、「広島長崎世界平和使節団」が訪れた時、彼らのアパートには百人もの人が押し寄せたという。そして、そこへマルコムXがひょっこり現れた。

●キング牧師とマルコムX

 1963年夏、キング牧師はワシントンDCに集まった25万人の前で、有名な「I have a dream」の演説をした。熱心なクリスチャンのユリは、非暴力を貫くキング牧師の姿勢を容易に受け入れたはずだ。翌年、彼の功績を讃えてノーベル平和賞が授与された。
 だが、黒人内部には、白人の暴力に非暴力でひたすら耐える彼のやり方に反対する人たちもいた。ブラック・モスリムのリーダーのマルコムXは、「黒人であり、アフリカ人であることに誇りを持て」と訴え、黒人の闘いとは地位向上を勝ち取ることではなく、「人間としての誇り」を取り戻すことだと主張する。そのためには経済的な自立が必要であり、自衛のための武装も辞さないと主張した。
 「キング牧師が黒人たちのより『高度な本能』に訴えたのに対し、マルコムXは彼らの『はらわた』に話しかけた」と伝記作家・ピーター・ゴールドマンは評している。マルコムXはキング牧師の平等の夢を「悪夢」だと揶揄してもいるが、 二人ともその直後に暗殺されてしまった。今振り返ると、両者ともに黒人のみならず、米国社会の人権意識を高めるために犠牲となった「時代の人柱」だった。

1965年2月21日、演説中のマルコムXが凶弾に倒れた直後の写真(「ライフ」誌掲載)。最初に駆け寄った女性はユリ・コウチヤマ(右)だった。

1965年2月21日、演説中のマルコムXが凶弾に倒れた直後の写真(「ライフ」誌掲載)。最初に駆け寄った女性はユリ・コウチヤマ(右)だった。

 1965年、マルコムXは演説中に敵対する黒人イスラムグループに銃殺される。だが、その裏でFBI やCIAが黒人内部の対立を煽動していた疑いも否定できないようだ。
 1960年代後半のコウチヤマ家は、さながら「活動家たちの休息所」と化していた。脱獄囚が夜中に飛び込んでくることが一度ならずあったという。
 ベトナム戦争の長期化は政府に対する不信感を煽り、黒人解放運動は、アジア系や先住民など他の少数民族の運動に火を点けていった。アジア系アメリカ人たちは反戦行動だけでなく、「自己アイデンティティの追求」も俎上にあげて連帯感を強めていった。そんな中で、ユリはそれまで使っていた英語名「メアリー」を捨てて「ユリ」を名乗りだした。

●ブラックパワーの波紋

 1973年、先住民たちは歴史に残る「ウンデッドニー占拠事件」を起こし、アメリカ・インディアン運動部隊と武装警官隊が二ヶ月以上にわたり銃撃戦を続けた。この事件が世界に報じられると、各国の少数民族から支援の手が差し伸べられた。
 マルコムXの死後、ユリはモスリム急進派に接近し、南部諸州で黒人だけの「新国家」を建設しようというRNA(新アフリカ共和国)に参加していた時期もある。ある時、ビルは居間のソファの下に隠された武器の山を発見したのだった。この時ばかりは、家族を危険に曝すユリの行動にビルは怒り狂ったという。
 1970年代、アメリカ社会の格差は増々広がっていった。「貧困、犯罪、暴力、麻薬、絶望・・・ハーレムに住む私にはそれはあまりにも身近な問題だった」とユリは言う。
 日系アメリカ人コミュニティに目を転じると、連邦政府が同じアメリカ市民を、敵性国人と見なして行った第二次大戦中の強制収容は、市民としての諸権利を人種差別に基づいて剥奪するものであった。日系人は 政府に対して謝罪と補償を求める運動を開始した。 これは歴史を正すリドレス運動の大きなうねりとなり、1988年の米加ほぼ同時の勝利につながっていった。
 今振り返ると、50年代の黒人高校生による人種隔離拒否に始まった公民権運動、60年代の黒人解放運動、ベトナム反戦運動、80年代に噴出してくる先住民の権利獲得運動等の流れの中で、日系人たちが社会正義を求める機運を高めてきたことが見て取れる。

1995年、右からユリ、息子エディ、「ユリ−日系二世NYハーレムに生きる」(1998年・文芸春秋刊)の著者・中澤まゆみ。NY市内で撮影 (Photo: Courtesy of Mayumi Nakazawa)

1995年、右からユリ、息子エディ、「ユリ−日系二世NYハーレムに生きる」(1998年・文芸春秋刊)の著者・中澤まゆみ。NY市内で撮影 (Photo: Courtesy of Mayumi Nakazawa)

以下は、この夏、東京で中澤さんにお会いした時のインタビュー。
ーユリとはいつ、どのように出会ったのですか?
1978年にNYで友達を介して紹介されました。私はそれまで若者向け雑誌「GORO」で音楽ページの編集をしていました。でも、これは一生の仕事ではないなと思って退社して旅行に出たのです。ジャズや黒人文学が好きなので、NYに行ったのですが、 ユリに電話したら、さっそくビルと一緒に会ってくれました。そこで 「うちにきたら」ということになって、それから二ヶ月居候したのです。料理は得意だったので、餃子とか、カレーライスとか作って、子供たちが喜んだのです。他にも泊まりたいという人が出てきて、何度か追い出されそうになりましたけど、エディが「まゆみを追い出すな」と言ってくれたりね。孫ズルーもいて、子供たちと仲良くなりました。
ーそこでインタビューを始めたのですか?
いえ、何度かオファーしましたけど、私よりも面白い人がいるといって受けてもらえなかった。ビルの死がきっかけでインタビューを了承してくれました。1994年から毎年一ヶ月NYにいって毎日一時間だけ話をしてもらったのです。
ー印象に残っている言葉は?
そうねえ、ビルが「ユリはいろいろ間違ったこともした」とぽつんと言ったことかな・・・。
ー作家として今、取り組んでいる仕事は?
友人が認知症になってかかわりができてから、老人介護を扱った実践用の本、「男おひとりさま術」等何冊か書いています。
ーあ、それ、気になる。ボクも読みたいです。(笑)

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