TVドラマ『花子とアン』の原作『アンのゆりかご』を読む

幼い頃に憧れたアンの日本の母親に巡り会えた・・・

 

「いま曲がり角にきたのよ。曲がり角を曲がった先になにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。」

1919年、花子(当時26歳)は築地の基督教会興文協会で、婦人子供向け本の編集者として勤務していた。同年、村岡敬三と結婚。(提供:赤毛のアン記念館・村岡花子文庫)

1919年、花子(当時26歳)は築地の基督教会興文協会で、婦人子供向け本の編集者として勤務していた。同年、村岡敬三と結婚。(提供:赤毛のアン記念館・村岡花子文庫)

村岡花子(1893~1968)が和訳した『赤毛のアン』の一節である。花子は、この原本のルーシー・モード・モンゴメリー(1874~1942)作『Anne of Green Gables』(1908年刊)を、戦争直前にカナダへ帰国することになった宣教師のミス・ショーから友情の記念として手渡された。そして、自室で隠れるようにこの敵国の本を和訳し続けた。「曲がり角」の向うの明るい未来を信じていたからだ。

●「アン」に憧れた戦後世代

 日加を繋ぐ一番太い文化の絆にして、最大の観光資源の一つでもある『赤毛のアン』と、その翻訳者・村岡花子の伝記『アンのゆりかご』(2008年刊)が、今年NHKの連続ドラマになった。実はつい最近までそれを知らなかった。
 偶然ネットで見つけた時、トロント在住のハワード園枝さんに、この花子の孫娘・恵理が上梓した『アンのゆりかご』の書評執筆を依頼して、 日系ボイス2009年9月号に掲載したことを思いだした。「幼い頃に憧れたアンの日本の母親に巡り会えた・・・」と題された書評には、 「戦後の貧しい時代にあって、女の子は皆どこかでアンと巡り会い、アンに憧れ、その物語の中に自分を発見して感動していた」とある。
 なかには熱が高じてカナダに移住した人もいた。1990年代からP.E.Iで 「Tea Room BLUE WINDS」を営むテリー神川さんがその人である。彼女は、『赤毛のアン』に登場するあらゆる料理や調度品を研究し、『赤毛のアンの生活事典』(1997年講談社刊)を書き上げた。その紹介記事を、サンダース宮松敬子さんが同紙1997年3月号に書いている。
 園枝さんがアンに出会ったのは、1957年、鹿児島県の田舎の中学校の小さな図書館だった。「日本の少女たちは、村岡花子を得て幸運である。花子の翻訳は、原作を超越して、あたかも花子の『赤毛のアン』の世界にいざなうのである。それは、花子の育成にかかわった父親や、夫はじめカナダ人宣教師の愛、生来備わった母性、そして数多くの人々との交流によって育まれた深い人間性が描く世界だからだと思う」と記している。

花岡恵理著「アンのゆりかご」。初版は2008年マガジンハウス社刊

花岡恵理著「アンのゆりかご」。初版は2008年マガジンハウス社刊

●「曲がり角」の向うの明暗

 激動の20世紀初頭に育まれた友情、そして信仰心が、小説家モンゴメリーと、戦後の日本で「家庭小説」を提唱し、自ら多くの良書を和訳して世に送り出した村岡花子の精神に通抵している。1955年、花子はヘレン・ケラーの日本講演の通訳もしているが、女性問題と取り組む等、彼女が戦後日本の民主化に果たした功績は量りしれない。
 先日、園枝さんとあるパーティでお会いし、話が花子の生きた時代に及んで驚いた。園枝さんは実姉を頼って1970年に移住して来たが、この姉妹の従兄がトロント日系社会のリーダーの一人ロイ・シンだとは知らなかった。ロイの実父・善太郎と園枝さんの父・茂は兄弟だったのだ。
 1918年頃、茂は兄・善太郎を頼って鹿児島からBC州オーシャンフォールスの製紙工場に渡ってきた。そこで知遇を得た同郷の樺山純牧師に導かれて洗礼を受けた。彼の妻と娘3人は1938年に帰国したが、彼は強制収容され、1943年に捕虜交換船で送還されてきた。日系人2万4千人の中でも稀なケースだ。そして四女・園枝が鹿児島で生まれたのである。
 園枝さんは父のことになると辛辣だ。娘の目には、家族よりも布教を優先させていたように見えたのだ。一方、アンの和訳者・村岡花子も父・逸平には批判的である。明治の末期、平民新聞などの社会主義運動に夢中になり、家業を顧みなかった 。何とか花子だけは学校にいかせたが、後が続かず、他の兄弟姉妹は養子にだされるなどした。花子にしても上流階級出身者ばかりの東洋英和女学校で当初は惨めな思いをしたが、 家庭教師などで自活し知力と努力で道を切り拓いたのだ。
 

著者・村岡理恵。1967年東京生まれ。成城大学文学部卒業。祖母・花子の書斎を「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として姉・美絵と主宰する。(2010年杉並にて田中撮影/協力・清水慎弥)

著者・村岡理恵。1967年東京生まれ。成城大学文学部卒業。祖母・花子の書斎を「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として姉・美絵と主宰する。(2010年杉並にて田中撮影/協力・清水慎弥)

こうしてみると、孫娘で作家の村岡恵理が、面白おかしく脚色された花子の「朝ドラ」に不満を持つのも無理はない。「祖母は本を漬け物石代わりに使ったりしませんでした」と講演でも語っているという 。花子とアンを対置させること自体に無理がありそうだ。結局「アン」は架空の人物なのである 。「実像」はモンゴメリーと花子の作品を読み込む中から、自分で見いだすしかないだろう。
 2008年、ルーシー・モンゴメリーの孫娘が重大な発表をした。1942年に没した祖母ルーシーは病死ではなく、夫の介護に疲れ果て、再発する鬱病の末に選んだ自死だったという。角の向うで地獄がぽっかり口を開けて待ち受けていた。
 「遺書」の抜粋にこうある。「神よ、お許しください。力の限りを尽くしましたが、もうこれ以上は耐えられません。何という結末であることか。お分かりいただけないかもしれませんが、皆々様、先立つ不幸をお許し下さい。」(田中訳)
 あるいは、どこに曲がり角があるのかも分らない闇を歩き続ける恐怖に抗い、敢えて自分で終止符を打つことを選んだのかもしれない。『赤毛のアン』完結編の原稿が出版社に届いた日、モンゴメリーは自殺していた。してみると、 モンゴメリーにとってアンこそが生きる希望だったのである。
(「ユリ・コウチヤマ2」は次号に掲載します。)

[文・田中裕介]