萬蔵が行く(7)

静かな明治男の気風 北村高明

B.C州沿岸の山脈にそびえ立つマンゾー・ナガノ山(1951 m)を指し示す北村高明さん(日系ボイス1991年8月号掲載)

B.C州沿岸の山脈にそびえ立つマンゾー・ナガノ山(1951 m)を指し示す北村高明さん(日系ボイス1991年8月号掲載)

 リドレス活動家の二世ロジャーオバタと水薮幸治氏が何度か僕に呟いていた。ほとんどの一世が個人補償を追求するNAJCに背中を向けていた中で、「トロントの北村高明さんと、ケローナの角野本太さんはNAJCを支持してくれた希有な一世だった」という。角野さんの半生記を掲載し、北村さんにはシューマック通りのお宅に何度も呼ばれて話を聴かせていただいていたので「希有な一世」であることはよく理解していた。特に北村さんは、静かな明治男の気風を秘めた正義漢だった。今も尊敬して止まない。正確を期すと、 一世の中ではリーダー格だったバンクーバーの田頭ハツエ、トロントの平松豊志の両氏もNAJC支持派だった。

 確かに一世は「個人補償要求」に反対してはいたが、政府が1949年までに生まれた日系人に対し一律21000ドルの個人補償を支給した時、受け取りを辞退した人は皆無に近かったという。曰く、「くれるというものを断る理由はない」だった。

 一世が個人補償に反対する理由は単純明快である。財産没収、強制収容に対しては「われわれは日本人であり、敵国人だったのだから仕方がなかった」という。この時、二世の大半が生まれも育ちもカナダであり、カナダ市民だったことは考慮されていない。更に一世は、「にもかかわらずカナダ政府は住む所と食物は与えてくれた。ありがたいことだ」という。しかし、その費用は自分たちの土地財産を売りさばいた資金で補填されていた事実は埒外に置かれている。許しているのではない、あらかじめ諦めているのである。

 この二点において、北村さんの姿勢ははっきり異なっていた。ご自宅で話を伺っていると、操子夫人がお昼ご飯を用意してくれた。それは白身の焼き魚と大根おろし、タクワンとみそ汁だった。カナダに来て70年経っても日本で食べていた物と同じなのだ。

1992年9月30日、トロントの北村邸を訪れた萬蔵の孫タイラス(右端・辰夫の長男)、左端の森作順(辰夫の第一子で4人の子供の中で唯一の娘)と北村高明・操子夫妻。昼食をはさんで和やかな歓談の一時を過ごした。  (Photo: Yusuke Tanaka)

1992年9月30日、トロントの北村邸を訪れた萬蔵の孫タイラス(右端・辰夫の長男)、左端の森作順(辰夫の第一子で4人の子供の中で唯一の娘)と北村高明・操子夫妻。昼食をはさんで和やかな歓談の一時を過ごした。
(Photo: Yusuke Tanaka)

 北村さんは他の一世とどう違っていたか。出稼ぎではなく、この地に骨を埋める覚悟で渡加してきた移民だったのだ。

 1904年、長崎県口之津で生まれた。萬蔵と同郷である。北米に憧れ、メソジスト教会で洗礼を受けた。19歳で役場勤務を辞して、村長の養子となり、呼び寄せの資格で移民してきた。出発直前の1923年12月に、祖父に勧められて病床の萬蔵を見舞っている。結核に蝕まれていた萬蔵は声を絞り出すように、「息子の辰夫と照磨をよろしく頼む」と託されてきた。翌年1月、横浜港からアラビア丸に乗船した。

 ソーミル工場などで働き、困苦努力して金を蓄えた。1936年に操子さんと結ばれた後、28部屋のルーミングハウスを買い取った。やっと経営が軌道に乗った矢先の強制移動だった。政府の登録命令に対し、「私はカナダ市民なのだから立ち退かない」と出頭を拒否した。こうして、他の70名とともに第101アングラー戦争捕虜収容所に送られ、ハット(営舎)リーダーとして4年間過ごした。

 北村さんがカナダに来た時、照麿は既に一人立ちし、辰夫は米国へ移動した後だった。萬蔵との約束を果たすべく、萬蔵の実弟の息子・代六 の老後の面倒をみている。末永國紀(同志社大学 )の論考「カナダにおけるリドレス運動の先駆としての家族集団疎開運動」に引用されたアングラー収容者名簿に「長野代六・60歳 」と記載されている(注・「永野」の間違いであろう)。晩年になって夫婦で故郷口之津を訪ねた際に、 玉峯寺の永野家の墓を訪ね、カナダ国旗を口之津資料館に寄贈してきたという。

 北村さんは収容所生活を克明に記した「黒い小さな手帳」を取り出しては、僕を相手に当時の記憶をたどってくれた。何度も指摘していたのは、新保満著「石をもて追わるるごとく」(1975年)の中の事実誤認である。同書には 捕虜収容所が正式に閉鎖されたのは、「1946年4月26日」だとある。「 350名程のこっていた日系収容者は4月29日の天長説に遥拝式を行い、そのあとで全員出所した」とある。

 北村さんは、「これは事実と異なる。自分はその後も残って後片付けをし、7月までそこにいた」と言う。 寡黙で奥ゆかしい操子夫人は、どんな思いで4年以上に亘る夫の不在を耐えていたのかと、居間から臨むリバーデイル小動物園を眺めたものだ。

 ある時、「黒い小さな手帳」を差し出して、「これをタイプして本にしてくれませんか」と言われた。喉から手が出そうなくらいに欲しかった。だが、既に他の二世収容者の日記の出版がとてつもなく重荷になっていたので、今は勘弁してください、落ち着いたら来ますと言い置いて退出した。1999年10月に95歳で亡くなった時、遺族に尋ねたのがこの手帳の一件だった。残念なことに、捜したが見つからなかったと水薮さんを通じて連絡があった。こうして、僕の「航海日誌」にまた「後悔」の念が刻み込まれた。

[文・田中裕介]