<追悼>「ハーレムの母」と慕われた日系米人二世 ユリ・コウチヤマ(1)

中澤まゆみ著「ユリ—The Life and Times of Yuri Kochiyama」(1998年・文芸春秋刊)

中澤まゆみ著「ユリ—The Life and Times of Yuri Kochiyama」(1998年・文芸春秋刊)

 人との出会いは時に「 一目惚れ」という化学反応を起こして、予想もしない変化を人生にもたらしてくれる。中澤まゆみ著「ユリ」を再読してそう思った。日系米人二世ユリ・コウチヤマの人生は、生涯の伴侶となるビルと、39歳で暗殺されたブラック・モスリム運動のリーダーのマルコムXとの出会いで大きく変化した。

 終世、活動家として多くの人に影響を与えてきたユリだが、今年6月に93歳の生涯を閉じた。1995年から3年をかけてインタビューを敢行し同書を書き上げた中澤まゆみ氏にしても、1978年にふらりと立ち寄ったNYで出会ったユリに魅せられ、それから二十年後にこの書を完成させたのである。如何に出会いの化学反応が大きかったかが見てとれる。      

 同書が出版された直後に、その書評を日系ボイス2000年7/8月号に掲載した。振り返って当時の僕自身の感動をたどってみたい。

●米と加:日系史の相違と類似

 「北米の日系人」と一括されがちだが、二世体験の違いにカナダとアメリカの民主主義の相違が表れている。第二次大戦に際して、米国は二世にも徴兵制を適用したが、カナダでは日系人はその対象にすらならなかった。米国では1943年から二世兵士が欧州戦線に送られ、壮絶な戦いを展開した。 今も、彼らの「特攻」精神は「Go for broke(ダメで元々)」という言葉で語り継がれている。

 米国本土への日系移民は1884年に合法化された。以来、サンフランシスコ、ロサンゼルス等に日本人街が形成されていった。二世たちは当然にも米国を祖国として育ったが、彼らの米国人としてプライドは戦争が始まると木っ端微塵に砕かれてしまった。

1999年、NY紀伊国屋書店での出版記念講演会で、ユリと著者・中澤まゆみ

1999年、NY紀伊国屋書店での出版記念講演会で、ユリと著者・中澤まゆみ

 米政府は日系人全員に「忠誠登録質問」を突きつけ、「米国のために戦う意志がある」に対して「ノー」、「日本に対する忠誠を拒否するか」に対して「ノー」と答えた二世は、即座に牢獄へ送られそのまま終戦まで収容された。戦後に日本へ「送還」された人もいる。

 ジョン・オカダの小説「ノーノーボーイ」の主人公イチローはその両方に「ノー」と答えて終戦まで投獄された。戦後、シアトルの日本人街に戻ってきた彼を待っていたのは、日系人の冷たい視線だ。戦場に赴いた二世たちからは「米国人の恥」とされ、国粋主義者の一世親たちからは「日本人の恥」のレッテルを貼られた。

 幸か不幸か、米国人としての揺るぎないアイデンティティを植え付けられて育ったユリとビル・コウチヤマは、第二次大戦の勃発で初めて米国の実相が見え始めたのである。第442部隊の英雄として復員したビルだが、戦後になって、米国の憲法と民主主義に照らした時、家族を人質に取られながら理不尽な「踏み絵」を拒否した「ノーノーボーイ」こそが英雄ではなかったかと語っている。

●スパイ容疑で逮捕された父

 ユリの父・中原正一は、1887年に岩手県遠野で南部藩士の家に生まれた。会津若松出身の母・艶子は津田塾で英語を学んだ才媛だった。1906年、事業欲に燃えた中原は義兄をたよってサンフランシスコに渡り、1910年にロサンゼルスの近郊サンペドロ港で鮮魚店を開業した。そして、寄港する日本の商船や軍艦に食料物資を調達する仕事が成功して日系社会の名士となった。

 ユリは二人の兄弟とともに、北欧系が主流の地域で差別など微塵も知らずに自由闊達な子供に育っていった。同時に、小さい頃からキリスト教会に通い、聖書を通じて「神からのメッセージに魅了されていた」という。40代でマルコムXに影響を受けてブラック・モスリムに入信したことでも分るように、宗教に強く惹かれる傾向があった。

930年頃のサンペドロの自宅で、中原家のクリスマス写真:右から母艶子、メアリー・ユリコ、双子の兄弟ピーター、兄アート、父正一

930年頃のサンペドロの自宅で、中原家のクリスマス写真:右から母艶子、メアリー・ユリコ、双子の兄弟ピーター、兄アート、父正一

 ユリが20歳の時、真珠湾攻撃で全てが一変する。突如、FBIが現れてスパイ容疑で父正一を連行していった。一ヶ月後、父は過酷な尋問の果てに持病を悪化させて死亡する。

 同書によると、旧知の野村吉三郎駐米大使が開戦前に正一に宛てた、 「久々に再会し、サンマを一緒に食べたかったのに残念だ」という電報の「サンマ」が暗号ではないかと疑われたという。 正一は20年に亘りFBIの監視下にあった。

 大統領命令により直ちに日系人11万人の強制立ち退きが開始された。混乱と絶望の中で、ユリは収容所の病院などで八面六臂の活躍を見せる。自分の置かれた状況を冷静に受け止め、今何をすべきかを見極めていたようだ。日記に「この一ヶ月の間に三年から五年分の人生を学んだ。生ある限りこうした生き方を続けたい」と記している。

 そして、ハワイと本土の二世たちで組織された第442部隊に応募して来たビル・コウチヤマが、ユリの前に颯爽と現れたのである。二人の愛が通じあってからユリは戦場のビルに、一日に3回手紙を書いたという。ビルはその愛に報いるために生き抜こうと思ったはずである。欧州戦線で米国戦史に残る武勲を残した442部隊だが、その死傷率はまさに「死んで元々」と言えるだろう。総勢5千名のうち、無傷で復員してきたのはたった23人。ビルはその一人だった。 

 一方、カナダ軍は戦争末期の1945年春になって、英国軍の要請でやっと日系人の募集を開始する。150名の二世たちは諜報部の通訳として武器もまとわず東南アジアに送られ、戦後も捕虜の尋問などの職務に就いた。

 両国の二世に対する戦時中の処遇の違いは、後の日系リドレス運動で明確になった。442部隊の元兵士たちが立ち上がった時、米国の退役軍人会は支援を申し出た。カナダ退役軍人会が、「日本政府は香港戦争捕虜に対する謝罪も補償もしていない」と真っ向から日系リドレスに反対したのと鋭い対比を示している。(次号に続く)

[文・田中裕介]