萬蔵が行く(6)

日系ボイス1997年9月号掲載

日系ボイス1997年9月号掲載

第二次登山隊がナガノ山に託した未来へのメッセージ

 高村光太郎の詩「道程」に「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」とある。冒険者を魅了する言葉だ。だが、ある山男曰く、山登りでは「君の前にトイレはない。君の後にトイレはできる」なんだそうだ。「後塵を拝す」という言葉があるけど、後から来た登山者には目障りかもね、というと、「いや、あれはケルンみたいなもんだ。人間がいたことの証明だ」と笑い飛ばした。
 1977年に命名された「Mt. Manzo Nagano」は79年に初登頂、1997年にランディ・エノモトNAJC会長率いる11人のパーティが再登頂して道程を拓いてくれた。だが、その後、後続者が出てこないのは残念である。2017年は萬蔵のカナダ密入国から140年目に当たる。これを記念して第三次登頂を企てる強者の出現を期待したい。
 1992年にバンクーバーで開催された「帰郷・ホームカミング」は日系史上最大規模の大会だった。その開会式で挨拶に立った当時GVJCCA会長のランディ・エノモトは開口一番、 「今朝もいつもどおり海岸沿いをジョギングして来ました。気分は壮快です」と語った。 実行委員としてテンテコ舞いの忙しさの中でも自分に課したノルマ はちゃんとこなしている。僕はカメラを向けながら、「相当な強者だな」と思った。だから、1997年にランディから「ナガノ山の頂上から衛星中継でトロントに電話するから、感想などを記事にしてくれないか」と打診された時、驚かなかった。歴代のNAJC会長のメッセージを22年間毎月和訳してきたが 、活動家らしい飾らない気骨を感じさせる文章を書いていたのは、ランディくらいのものだった。彼ならやりそうだなと思った。

コバルトブルーの湖と空と

 登頂後のランディの手記によると、発案者は小笠原毅(タック)という移住者だった。77年にこの命名が決まった時から登山を希望し、1995年にNAJCに直接提案したという。更に、神戸在住の元山岳会の藤原謙二も熟練登山家として加わった。彼は同郷長崎出身者の名が付された山に登ってみたいと思っていたのである。特筆すべきは、マンゾー四世と彼の母親で三世の笑(エミー)、笑の実姉光(ダイアン)も参加したことだ。この三名は、萬蔵の次男照磨の子どもと孫で、登頂隊には加わらずベースで留守番をした。ただ、マンゾーは彼の靴が登頂には不向きだと判断されて諦めたという(珠美夫人の談)。頂上は強風だったというから正しい判断だったと言えそうだ。
 8月23日(土)。ベラクーラ近郊の空港からプロペラ機でオイケノ湖畔まで向かい(30分)、そこからヘリコプターに乗り換えてベースキャンプに到着。ランディとタックその他2名は、ベースキャンプ設置に適した場所を機上から探るために、空港からヘリコプターで山頂を見下ろす地点まで飛んで旋回した。機内から見下ろしたオイケノ湖は「岩盤上の洗面器にコバルトブルーの水を浮かべたように美しく、そこに滝が注ぎ込み、溢れ出た水が急流となって流れ出ていた」という。湖の上方100メートルの地点にテントを設営した(午後4時)。1979年の初登頂時は、湖から頂上までの道筋が見つからず昼間も暗い森に迷い込み苦労したとある。1997年は、この過程をスキップしたが、技量に応じた安全な道筋を開発したと解釈できる。
 その夜は強風と激しい雨が続き 、翌朝目が覚めると格納テントがひしゃげて吹き飛ばされそうになっていたという。午前7時。登頂隊が出発。
「氷原の最下部は青氷層でアイゼンは不可欠」だった。山頂は疾風あれ荒ぶ氷点下だったが、そこに18年前にスティーブ・ナガノ等5名が打ち込んだ盾を発見した。前回登頂時は暑くてTシャツ姿の写真が残っているのとは大違いだった。そして、未来への メッセージの詰まったタイムカプセルをケルンの下に埋めた。全員で「バンザイ!」を三唱し、シャンペンで乾杯した、とある。

日系ボイス1997年9月号掲載

日系ボイス1997年9月号掲載

カプセルに詰めた未来への夢とビジョン

 NAJCは14支部から集めた「未来の登山者へ」と題されたメッセージをタイムカプセルに詰めて山頂に埋めた。ランディは「少なくても20年に一度は登山されることを希望し、2017年までにはわれわれが遺したカプセルが開けられることを望んでいる」と同手記に記している。先日のメールによると、「体力はあるので、事情が許せば、また登ってみたい」とあった。
 カプセルには当時のNAJCの使命も盛り込まれていた。一つは「独自の文化発展」であり「絶えず変化発展するアイデンティティ」を尊重し、「多様性を内包する地方支部に独自の文化を創出すること」。二つ目は「人権擁護の促進」であり、リドレス運動が他の多くのエスニック団体の支援を受けたことを踏まえて、「他のグループ、個人の社会正義が脅かされた時に、支援の手を差し伸べる義務と責任を負っている」と明記されている。
 そして、このカプセルには日系ボイスの英文論説も入っているはずだ。英語編集者のジェシーと僕が話し合って書き上げたものだ。20年後の日系社会は、移住者が中心となっているだろうという予測に基づいた内容になっている。それを踏まえた上で、敢えて「主流社会への徹底した統合を危惧している」と書いた。そして「一つひとつのグループが独立し、個別の存在であるという感性を育むべきである。更にその向うに、われわれのささやかな伝統遺産、つまり『日本人であること』が維持され、それをわれわれがカナダ人であることの大事な要素としてほしいと思う。願わくば、耐えるだけでなく、優勢をほこる存在となっていることを期待したい。」(1997年8月14日) 
  さて、この「過去」からのメッセージを今、どう受け止めたらよいのだろう。確かなことは、1997年、ナガノ山が日系社会を見守る不滅のアイコンとして定義されたことだ。あるいは、日系カナダ人社会にとって、永野萬蔵は広大な「自然」であり、絶えず見守り、一人立ちする気魄をみたしてくれる「父」と再定義されたともいえるだろう。もう一度「道程」を想起したい。

僕の前に道はない
/僕の後ろに道は出来る
/ああ、自然よ
 父よ/僕を一人立ちさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ
/この遠い道程のため/この遠い道程のため

[文・田中裕介]