萬蔵が行く(4)
フランク照磨の出生の謎
1923年、萬蔵の最期を郷里の口之津で看取ったのは後妻の多與だった。最初の妻ツヤは1893年、第二子出産の直後に23歳で他界している。その5年後、「京都の古美術商問屋に身を寄せていた美人の多與子を見そめて再婚した」(カナダの萬蔵物語)とある。
これまで何度か継母・多與と長男ジョージ辰夫との確執に触れてきたが、 辰夫の長男タイラスの記憶では、多與の印象は「オモチャを買ってくれる約束を果たしてくれなかった」等とあまりよいものではない。
他方で、優しい面もあった。近所に住んでいた森松枝(当時8歳)の回想によると、1921年、萬蔵が60半ばで結核に倒れビクトリア市の病院に入院していた頃、 永野家の日本美術工芸品店のショーウィンドーを眺めていると、店内から多與に呼び止められて、「まっちゃんのような可愛い子が私にもあったらねぇ」と「自分に本当の子どもがないことを残念がるような素振り」を見せていたという。更に、萬蔵の死後、孫にあたる順子が東京で学校に通っている時に訪ねてきて、しきりに「おとうきうという新興宗教をすすめた」(順子の手記)という。これはおそらく「淘宮」のことで自分の性格(宮)を把握し、よい面を伸ばす修養法のことであろう。前出の「萬蔵物語」には「大本教信者」とされているが、ここは実際に多與と接した順子の手記に従いたい。ここで見えてくるのは、真摯に人生と向き合う世話好きな女性像だ。
さて、次男フランク照磨(てるまろ)は、1896年(98年という説もある)に神奈川県で生まれた。そして「まだ物心がつかないころにカナダに連れてこられた」という。「たまよ」という萬蔵の愛人が照磨の実母であった可能性もあるが、確証はない。 カナダに来ることを拒んだ「たまよ」の代わりに、多與が照磨の母として入籍したという説もある。ともあれ実母が照磨を手放したことは確かなようで、別離の愁嘆場が横浜埠頭であったであろうことは想像に難くない。
幸運にも、萬蔵の息子は二人とも立派に成長した。多與の手柄である。フランクも兄同様に野球好きで巧かったという。成人後、ビクトリアから北へ200マイル離れたオーシャン・フォールズのパルブ会社に勤めて野球を続けた。日系人だけで250人がここに就労していた。家族を含めると400人いたという。そこにかつて萬蔵の下で働き学校に通わせてもらって一人前になった大関直幸がいた。フランクはその縁でこのボスの右腕として使われた。戦後は、ケベック州ファーナムに再定住し、そこの自動車座席工場で60歳過ぎまで働き永眠した。以上、1977年12月に発刊された「カナダの萬蔵物語」を参考にした。
永野家五世代は「日加の縁結び」
照磨と田鶴子夫人は一男五女に恵まれた。田鶴子夫人(1909年東京出身)は2000年にトロントの日系文化会館の式典に招かれて元気な姿を見せている。長男鶴雄は1977年の日系百年祭で移民第一号永野萬蔵の孫を代表して記念の盾を受け取っている。フランス系の女性パレットと結ばれていたが若くして病死した。
ところで、この記事執筆に当たり、四女光の息子Manzo Harroldの妻で、2007年に エドモントンに移住して来た珠美さん(旧姓桜井・千葉県出身)の協力を得た。そのきっかけとなったのが、 松井小巻監督「レイ子の雛人形」(2012)だった。原作者の穂谷野由美子さんから、この映画に出演した赤ん坊の名は「健蔵」といって「父は永野萬蔵の曾孫でマンゾーという名です」と連絡があった。マンゾーと珠美夫妻の二人の子ども
(健蔵とサチ)は、萬蔵から数えて五世代目に当たる。こうして日加の絆に再び強い結び目ができたのである。
[文・田中裕介]