萬蔵が行く(3)

永野三兄弟と順子。左から三男ポール、長男タイラス、次男ジャックと長女・順子(おそらくは)1977年に日系カナダ人百年祭にカナダを訪問した際の撮影)Photo: Courtesy of George Nagano family
永野三兄弟と順子。左から三男ポール、長男タイラス、次男ジャックと長女・順子(おそらくは)1977年に日系カナダ人百年祭にカナダを訪問した際の撮影)Photo: Courtesy of George Nagano family

永野三兄弟と順子。左から三男ポール、長男タイラス、次男ジャックと長女・順子(おそらくは)1977年に日系カナダ人百年祭にカナダを訪問した際の撮影)Photo: Courtesy of George Nagano family

母セキと娘順子の試練
 かつて幼児の子守りは、祖父母か年長の娘の役割だった。だが、徒手空拳で移民して来た人たちに祖父母を呼び寄せる余裕はなかった。だから、幼い二世を日本の親元に預けて高等小学校を終える頃まで面倒を見てもらうというケースが多かったようだ。その間、移民親たちは身を粉にして働き養育費を親元に送り続けたのである。そして養父母はその仕送りを当てにしていた。

 裏を返して、これを子どもの視点から見てみよう。 親の愛情を肌で感じることなく、見捨てられた思いを抱きながら育つのである。 萬蔵の長男・辰夫と妻セキの長女・順子の青春は、その典型と言えそうだ。

帝国ホテル勤務時代の永野セキ(1913年・おそらくは同ホテルのスタジオでの撮影)

帝国ホテル勤務時代の永野セキ(1913年・おそらくは同ホテルのスタジオでの撮影)

 1911年、セキは姑から「初産は親元でするものだ」と言い立てられ、7ヶ月の身重で旅客船のタラップを上った。夫辰夫は平素から継母・多與と仲が悪かったが、自分の妻を追い出そうという意図まで透けて見えたこの時ばかりは徹底抗戦したようだ。セキが日本へ去った後、家を出てアルバータ州バンフのホテルで 働きだした。セキは順子を出産してまもなく、親戚にあずけてそそくさと東京に出ていった。そして、得意の英語を活かして帝国ホテルで交換手の仕事をした。だが2年後、神が定めた夫婦の契りに背いてはいけないとカナダに戻ってきた。
 辰夫とセキは再びビクトリアで萬蔵の店を手伝うが、慶応大学を出て既にカリフォルニアで農業を営んでいたセキの兄清次の誘いで 、1917年、最終的に永野家を出ることを決意した。辰夫に跡取りとなることを期待していた萬蔵の落胆はいかばかりだったか。 順子の手記や、辰夫の長男タイラスの記憶によると、やはり姑多與との確執がその背景に見え隠れする。
  萬蔵はその頃すでに鮭の輸出業から撤退しており、事業運は急速に遠のいてゆく。不審火で店を焼失したのが追い打ちとなった。 自身も結核を悪化させて一切の事業を売りさばき、1922年に出身地の長崎県口之津に帰っていった。死の床を訪ねてきたカナダ移民を志す北村高明(当時19歳)は、もう一度カナダに帰りたいが無理かもしれない、二人の息子をよろしく頼むと懇請されている。そして、これが機縁となり、一世・北村高明と永野家の見えない糸となって晩年まで続く。
  順子が 母と初めて対面したのは18歳の時でセキが15年ぶりに一時帰国した時だった。一緒に過ごしたのは2ヶ月足らずで、米国に一緒に連れて行ってほしいと懇願する順子に、母セキは、移民の生活は楽ではない、日本で教育を受けたあなたは日本にいる方がよいと懇々と説いたという。別れの横浜港で、唯泣き続ける娘の手に「指輪を3つ」握らせて 「幸せになるのよ」と言いおいて去った。それが最初で最期の母娘水いらずの時間だった。
 その後、順子は歯科医の森作氏と結ばれ、たまさかの満ち足りた家族生活があったが、1943年、夫は10歳の長男を頭に下は満1才にならない四人の子どもを残して病死した。この時、母としての順子の試練が始まった。家を火事で失い、敗戦後のインフレで虎の子の貯金が紙屑同様になってしまったのだ。学校教員をしながら、「石にかじりついてでも子どもを一人前にしてみせる」と意地を張って生きていたという。

1958年当時の辰夫と順子

1958年当時の辰夫と順子

「今は知らず、後に知るべし」   その頑な心が一挙に氷解する事件が起きた。米国の家族から託されたとカールソン牧師から箱に詰まった贈り物が、順子に東京で手渡されたのだ。そして、その時読み上げられた聖書の言葉で、自分は見捨てられていなかったのだと悟ったという。その喜びを、順子は、帰りの田んぼの畦道を「飛び跳ねるように家路を急いだ」と書いている。 そして、これまで恨みに思っていた非礼を周囲に詫びに回ったという。齢37にしてそれまでの苦難の道のりは、神の恩恵であったと歓喜とともに受け入れたのである。この天啓に打たれた思いは個人的な信仰体験として語られているが、 日本の民主主義の幕開けでもあった。米国の富とキリスト教が、明るい未来の象徴だったとも言えるだろう。そして 永野家にあっては、途絶えていた互い消息を取り戻したのである。
 1954年、 日本を訪れた父・辰夫(当時64歳)と生まれて初めて対面した。その後、何度か訪日し、辰夫は順子にロサンゼルスに移住することを提案するようになった。順子も父や3人の弟(タイラス、ジャック、ポール)との失われた人生を取り戻したいと思った。1965年、早期退職を決め、 二人の息子も一緒に移住を決意した。渡米後は縫製工場で職を得て、再び永野姓を名乗った。ただし、地元の日系紙「羅府新報」等への常連投稿者として、また生け花の教師としては終世「森作順子」を使っていた。
 ところで、僕には永野萬蔵と僕自身を繋いでくれる秘蔵の品がある。 それは「Jun Morisaku」ブランドのネクタイだ。彼女が縫製工場で作っていたものだろうと思う。1993年、彼女の手記を「日系の声」に掲載したことに感謝して、箱いっぱいプレゼントしてくれた。今も、タンスの奥にぶら下がっている。
 2010年12月、順子さんは99歳で他界した。長男正男(当時77歳)さんと電話で話す機会があった。順子さんからいただいたネクタイのことを伝えると、正男さんは、「ああ、そうですか。細かい仕事は苦手で、万事にわたって鷹揚な人でした」という。「そういえば、いただいたネクタイの中に、タグの縫い目がほつれて取れそうなのがありました。自分で縫い直しましたが」と言って二人で呵々大笑した。 彼女の人柄と人生に触れられたこと自体が、一人の日系紙編集者にとっては祝福だったと、今になってそう思う。

[文・田中裕介]