何でも好奇心

「もみじ庭園・Momiji  Garden  Blessed 」

 V市の東方ヘイスティング通りとレンフリュー通りの角に38,000人を収容できる大運動場がある。夏期には毎年、開催する大共進会場とがある。パシフィック・エキジビション・パークと称し多数の陳列館、競馬場、野外球場、遊園地、その他の娯楽施設がある。

「庭園起工地鎮祭」

 1993年4月17日(土曜日)PNE正面玄関近くに日系有志100名が集まり、「もみじ庭園起工地鎮祭」が行われた。1942年に日系人が『強制収容』移動された場所であった。2エーカーの庭園委員会、ヘンリー若林委員長は挨拶で『もみじ庭園の名前の紅葉が明るいもので、暗い過去より明るい将来を象徴し、日系人がカナダのモザイク文化に積極的に貢献してゆくという意味でこの庭園の意義はあるのだ。』と語った。サンドラ・バニスターPNE会長は『この庭園がPNEの165エーカーのうち100エーカーを緑化するという計画の第1歩となった。』と語った。第2段階として歴史資料館建設は有志により1994年から始められた。

「天理教祭員」

 Tenrikyo Church head minister Kenichi Nishi, Rev.Motoaki  Egawa and church members conducted the purification and blessing ceremony for the commemorative Momiji Garden under construction at the Pacific National Exhibition.地鎮祭式典は黒い教服に身を包んだ天理教祭員6名より執り行われた。式典の最後にヘンリー・若林氏とサンドラ・バニスター両氏による鍬入れ式が行われた。ガーデナーズ協会、もみじ庭園委員長の上柿拓生氏と在日本総領事館の対馬修領事による鏡割りが行われ、地鎮祭は終了した。

「岩田紳也JCCA理事」

 移住者の代表、岩田さんは1985年に工業デザインを学ぶ学生として、カルガリーに移住した。1991年に大学院を卒業後、V市に移りエキゼビションデザイン会社に勤務していた。JCCAの理事になった理由は、もみじ庭園とNNHCの企画に興味を持ち建築関係やエキゼビション関係を専門にしているので、日系コミュニティに役に立てることがあればと言う気持ちから理事会への参加となった。1994年のJCCAの理事はカズ・サカキバラさん、ヨシコ・ゴドさん、ピーター・久保谷さん、白木由紀子さん、マサ・カガミさん、ドン・カワノさん、メアリー・ヨシミ・ナカノさん、シャグ・安藤さん、鹿毛達雄さん(人権委員会)が務めた。

『スロー湖畔の思い出』

 昭和34年1月20日に福岡市で印刷、同年1月25日に岡山県吉備郡、ゆり歌会岡山で発行された非売品の本がある。最初の頁は『住みなれしカナダの土を愛したまう、君が平和の祈りは深し。4年(よとせ)なるスロー湖畔の思い出は、君の心に消ゆる日なけむ。』で始まる。

「美市・ビクトリア市から晩市・バンクーバー市へ」

 1942年4月22日、忘れることの出来ない思い出の日である。

娘時代から住み慣れた第2の故郷ビクトリア市に別れを告げて、私達はここを立ち退くことになった。それはバンクーバー市とビクトリア市の間にある島々から送られてきた人々、ダンカン、シドニイ、ナナイモ、ポートアルバーニー、からの500名の人々とバンクーバー在留民200名、合わせて700名程の人々が、ビクトリアの波止場に集合して大船に乗せられることになった。その朝、私たち夫婦と1マイル程はなれた所に住んでいた隣家族とが2台の車を飛ばして住み慣れた地を発った。私宅の庭には山吹、りんどう、桃の花などがさいていた。隣宅の庭には藤の花と八重桜が見ごろで、広い庭園には梨の花が散り、りんごの木が桃色の蕾をつけていた。この春の眺めも最早2度と見ることが出来ないと思えばほろりとした。私たち夫婦は白人の友人の車で、隣人家族は他の車で波止場についたのは朝9時半頃であった。もう波止場には大勢の人々が集まって、荷物を船に運んだりして忙しそうにしていた。こうして皆、バンクーバー市のヘステングパークに送られるのである。子どもを抱いた母親、荷物を運ぶ男達、旅行鞄をさげて、老人若者数百人の人々は住み慣れた地を離れるので泣いている人もあり、泣かぬまでも、皆淋しさをかくしきれぬような顔をしている。私は隣人と一緒に庭の桜を記念にとこれが最後かと思いながら、あかずそこからの景色をながめた。ガバメント街の高い建物、海に面した郵便局やデパートやエンプレスホテル、横通りの県庁、懐かしい地よ。せきくる涙にすべてのものがかすんでしまう。乗船して船上より見る街、船に舞うかもめの群れ、時に10時半。船は名残の汽笛を最後に静かに波止場を離れた。

「船旅」

船はだんだん沖へでて、ビクトリア市の海に面した大公園ベーコンヒルパーク、時は丁度春のまっさかりで、有名な黄色の花えにしだが一面に咲いていた。街の人たちはこの鼻をブルウム・ツリーと名付けていた。緑の木々に細い葉、黄色の花の美しい丘を海上の船から見る。私は自分の庭の珍しい花、日本のかいどう、山吹、梅、桃、りんどう、などの数々の花を、永くお世話になった恩人ギブソン夫妻2人の親切に報いるために差し上げた。やがて船はオークベーの沖に来た。間もなくカドバベーの入湾を通り過ぎて、春の山々を沖から眺めながら船は走り続けた。間もなく昼になった。船客700名は3代わりになって、昼食時間は12時から12時半まで1組で、12時半より1時までが2組で、1時より1時半までが3組で3回に分かれて昼食を済ました。この日の献立はロースト・ポークとマシュポテト、トマトスープ、桃のデザートのご馳走だった。その間も休みなく船は走り続けた。午後3時頃にぱらぱらと大粒のにわか雨が降った。陽が照っているのに雨が降る、子どもの頃に歌った狐の嫁入りだった。

[文・天野美恵子]