何でも好奇心 「化石燃料」

 紅葉の収穫祭・豊年祭の後は『戦没者追悼日』で市内外26箇所でリメンバランスデイ式典が行われた。第2次世界大戦と朝鮮戦争の戦没者を追悼する日で第1次世界大戦の終戦調印式が行われた午前11時に『黙祷』が捧げられた。加奈陀は第1次世界大戦で約6万人、第2次世界大戦で約4万2千人、朝鮮戦争で312人の将兵を失った。

「日系人記念塔・Stanley Park」

 スタンレーパークの中央に日系人によって建てられた第1次欧州大戦参加日系人勇士の記念塔がある。1888年から1893年に渡る加奈陀総督スタンレー卿(Lord Stanley)の名をとって命名されている。大樹が茂る周囲約7マイル(11キロ)、広さ1,000エーカー(400ヘクタール)の大自然公園で、花園、グリーンハウス、野外音楽堂、水族館と動物園、運動場、遊戯場もある。第1次大戦に際し加奈陀日系人会は日系義勇兵を組織し、196名の戦士を欧州西部戦線に送った。その内54名は戦死し、142名が負傷し帰国した。勇士達の忠勇義烈を記念するために建立された。お国の為に自らの命を捧げた祖先のお名前が刻まれている。

「新資源、代替エネルギー」

 化石燃料である石油は資源枯渇が問題化とその消費によって排出される二酸化炭素による温暖化、地球環境問題に影響を与えている。石炭、天然ガス、石油、原子力、水力などの代替エネルギーがある。自然、再生可能エネルギーやリサイクルで実用化されている太陽光発電や風力発電、燃料電池発電は地域の自然環境特性や需要状況に合わせて技術開発研究が成されている。

「自然、再生可能3E」

 3Eとは経済成長(Economy Growth)と需要安定(Energy Security),環境保全(Environmental Protection)を表している。水力発電、地熱発電、太陽光発電、太陽熱利用、風力発電、波力発電、海洋温度差発電がある。『リサイクル再生』は廃棄物発電、廃棄物熱利用、廃棄物燃料製造、未利用エネルギーで『バイオマス』は黒液、木くず、廃材、バイオガス、エネルギー作物がある。従来型の新利用形態はクリーンE自動車、天然ガス・コージェネレーション、燃料電池がある。石油代替は石炭、天然ガス、原子力で燃料電池の種類はリン酸型、溶融炭酸塩型、固体電解質型、固体高分子型があり、直接発電方式交流変換である。

「コージェネレーション」

 エンジンやタービン動力や燃料電池の技術を用い発電を行うと同時に廃熱を暖房や給油に利用いるする方法でホテルや病院、スポーツ施設、山間離島のリゾート施設が導入している。

「加奈陀の面積」

 世界陸地面積の15分の1を占め385万平方マイル(997万6140平方キロメートル)で東ニューファンランドから西BC州ビクトリアまで鉄道距離4,500マイル(7,200キロ)、高速道路距離4,900マイル(7,200キロ)、空路距離3,900マイル(6,300キロ)の隔たりがある。7つの標準時間帯がある。ユーコンが午後12時の時、太平洋岸は1時、山中部は2時、中央部は3時、東部は4時、大西洋岸は5時、ニューファンランドは6時となる。

「和田勇氏・東京オリンピック功労者」

 1907年(明治40年)大西洋岸の村で生まれた。父親は加奈陀に漁師として渡った。小さな食堂を副業で営んでいたが、貧困で4歳の時に父の実家(名田村坂井戸)に預けられ、5年間は母方(由比町戸津井)で父方祖父母に育てられた。漁村での近所の助け合い、生き様が終生奉仕の原点体験となった。実母は出産が原因で死亡し、父親が再婚したため、小学校4年生の時に渡加した。大きな農場に住み込み、働きながら小学校に通った。苦学しながら和歌山県人が多く住んでいたターミナル島に移住した。17歳の時、農産物店で店長として働き、後にサンフランシスコ湾岸オークランド市内でマーケットを経営した。1933年(昭和8年)美浜町吉原出身の田端正子さんと結婚した。 翌年に70人の食料小売店主集組合を結成し、理事長に就任した。太平洋戦争開戦により日系人奥地強制移動した。和田氏は130人の日系人を引率移動しユタ州の収容所農場を経営した。彼のオークランドでのマーケットは国に没収された。戦後はロサンゼルスに移り『ファーマー・フレッズ・マーケット』を開業し17店舗を経営した。1949年(昭和24年)戦後、日本にとって初の『日米水泳大会』の為、訪れた古橋広之進選手と仲間9人を自宅に泊め、世話を全て自費で賄った。正子夫人の家庭料理の努力が報われて、古橋、橋瓜選手は共に国際舞台で世界新記録を出した。敗戦後の日本人と日系人に光明を与えた。これが縁で『第18回オリンピック大会開催地』に立候補した日本の岸首相から『日本オリンピック準備委員長』を依頼された。和田氏は全て自費で、夫人と共に中南米諸国を回り、1ヶ月以上も家業を放棄し世界各国に協力を求めて周った。スペイン語も話せた和田氏はメキシコIOC委員長のクラーク氏を説得し紹介推薦状を得て、ミュンヘンに出向き『東京決定』を勝ち得た。

 影の功労者として1964年(昭和39年)10月10日、オリンピック開会式に招待された。その功績により『東京名誉市民』に選ばれた。1969年のロサンゼルス・オリンピク委員長を務めた。その後、貿易貢献し『日米加の架け橋』となり、札幌冬季オリンピック・メキシコオリンピック開催貢献に力を注いだ。晩年は福祉事業、日系高齢者『日系人福祉財団』『日系引退者ホーム』を建設した。人のために身を捧げたとして『吉川英治文化賞』『勲3等宝章』を受賞した。2001年2月12日死去、93歳、己を捨てて社会に尽くした国際人と誉め称えられた。

参考文献:祖国へ熱き心、東京オリンピックを呼んだ男、日本人足跡3.

[文・天野美恵子]