何でも好奇心「文化の秋」

民芸展や御神輿、9月25日から27日はBC州のカルチャー祭典celebrate culture daysで美術館、図書館、歴史博物館など900の市町、1500の入場無料の催し物が開催された。バーナビー、バンクーバー、スコアミィシュ、ウイスラー、リルーエット、カムロップス、バーノン、サモンアーム、ケローナ、ペンテクトン、ホープ、メープルリージと自動車で移動し紅葉を楽しむ芸術愛好者もいた。自転車で旅行する若者達は新鮮な野菜や美味しいワイン、地元の人々との交流を楽しみながら、新しい発見に目を輝かせた。木版画や伝統工芸の講習会も行われた。Burnaby,Hope,Princeton,Penticton,Kelowna,SalmonArm,Vernon,Kamloops,Lillooet,Whistler,Squamish,Vancouver『World Rivers Day』Sunday,September 27 th 2015

「伝統工芸」

旅の途中に立ち止まる博物館で長い歴史にはぐくまれ、繊細な美意識、器用な手、根気に磨き抜かれた工芸品に出会い、楽しみが喜びに変わる。『豊橋筆』道は物も運べば、人も、文化も運ぶ。文化のかなめに筆墨がある。明治の頃までは筆記具は水筆と芯巻筆と墨だった。『有松絞り』『常滑焼』『名古屋友禅』『尾張七宝焼』七つの宝物、金・銀・瑠璃・はり・シャコ・赤珠・瑪瑙を指し、最高の宝物七種の輝きがある。『瀬戸赤津焼』瀬戸の陶祖を加藤四郎左衛門景正という。久我大納言通親に仕えて鎌倉五位の諸大夫となった。『岐阜和傘』雨あめ降れ降れ母さんが、蛇の目でお迎え嬉しいな、童謡で歌われる竹と紙の工芸品である。『美濃焼』『美濃和紙』『飛騨春慶』『一位一刃彫り』『伊勢玩具』『伊賀組紐』『高岡銅器』『輪島塗』
『能登上布』『加賀友禅』『久谷焼』『山中漆器』『越前焼』『若狭塗』『近江上布』がある。

「スポーツ・BCシニアゲーム・55+Games」

昨年までシニアゲームと呼ばれたこのゲームは今年から55歳以上の方が参加できる55+Gamesとなり87歳のベティさんとMLA山本なおみ州議員が開会式に挑んだ。24種目、746競技試合、3,300人の参加者が4つのゾーン、ビクトリア及びバンクーバー島、フレイザーバレー、ノースバンクーバー及びバンクーバー、ウェストバンクーバーで繰り広げられた。来年はコークイトラムで開催される。日系女性団はバトミントンで活躍された。

「100周年記念・ギルモア小学校・UBC」

バーナビー市立ギルモア小学校が設立100周年を迎えた。戦前、この小学校に5人の移住者の子供が通っていた。この地域は北B市商店街、歴史保存区域でヘイスティング通りとバンドリー街近くに戦後、静岡県出身の神谷夫妻の住居があった。隣組と合同教会に奉仕なさっていた田頭マスエ夫人、仏教会の吉松夫妻もこの地域に御住まいだった。BC大学も今年、創立100
周年を迎えた。鈴木博士、三木氏、清水氏、コガワ氏、カリヤ氏のお名前がThe BC Almanac Book of Greatest British Columbiansの本の中で輝いている。

「たけおカリヤ・ Takeo Kariya(1916 – 2004)・ Ucluelet バンクーバー島」

V島タフィーノから車で40分、パシフィク・リム・ナショナル公園のあるユクルレットがある。この漁村の漁師は自分で鮭漁船を造り勤労し、家族の生活を支えた。1942年 ― 1949年。
1961年、カリヤ氏は16人の同胞と共に帰郷、ユクルレット鮭漁会社を設立した。

「女性到来」

加奈陀で最初に日本から船で、1883年にV島に着いたチヨコ西村さんは滋賀県彦根市出身だった。1896年にカンバーランドで生まれた彼女の息子さんがBC州で最初の日系人だった。

「ダンズミア家」

1872年にBC州に法人登録されたユニオン石炭会社はV島にあり、7名の炭鉱業者によって創立された。米国のユニオン・パシフィック鉄道会社と提携を結んでいた。この会社はコモークス炭層を含む多くの鉱床を所有していた。1882年にエスクワイモルトとナナイモ鉄道が建設され、ダンズミア家は20万エーカーの土地の『地下と地上』の権利を獲得した。

「中島禎造・Teizou Nakajima (1889 – 1981)」

広島県の漁業と農業を営む資産家の家に生まれ、幼少から海草やあさりを採り、働くのが好きな少年は友人と共にハワイに渡り、砂糖キビ畑で働いた。 その後、渡加しスワンベイ、オーシャンフォールズ、ポートアリス、カンバーランド、ナナイモ、チメイナス、ビィクトリア、バンクーバー、バーナビー、ステイブフォールズ、ヘネー、ミション、ラングレー、サーレー、ケローナ、オカナガンセンター、バーノンと旅をした。B市のバーナビー湖付近の製材所で働いた。1910年12月にミッションに20エーカーの未開墾地を1000ドルで購入した。1916年には開墾を終え、苺の栽培を始めていた。中島氏は『ミション農会』『基督教会』『日本語学校』『英語幼稚園』を設立し、加奈陀と生まれ故郷日本との友好文化交流の場を提供し活躍した。

「マルキス小麦・穀物の品種開発・農場試験所」

1848年12歳だったチャールス・エドワーズ・サンダーズは父親と英国から加奈陀に移住して来た。父親は薬品専門家だったが、加奈陀連邦政府に『国立農場試験場』の必要性を説き農作物報告書を書いた。農業開拓者達は長く夏が続く年を除いては小麦が育たなかった。短い夏のは年は実り掛けた小麦が冷えて収穫できない悲劇が襲った。当時の農民が蒔いた種は欧州産の『冬小麦』だった。兄がスコットランドの小麦『レッド・ファイラ』が風土に合うことを発見した。だが、この小麦はマニトバ州と西部の平原諸州の冷える夏には不作だった。穀物の品種開発・生物学・バイオテクノロジー(遺伝子工学、細胞工学、発生工学、蛋白質工学、バイオリアクター、組織工学・再生医療、バイオインフォテイックス)を総合的に結びつけて活用した。遺伝子組み換え作物、品種分類管理、実験を繰り返し6年目に改良種と印産変種小麦を組み合わせた新種小麦『マルキス』を開発した。1907年、この小麦は他の小麦に比べて短い日数で収穫でき、パン用小麦として最高品種と認められ、加奈陀は『世界的小麦生産国』となった。

[文・天野美恵子]