何でも好奇心「流浪の民」

 1890年初期、バラード入江のコルドバ街は高級住宅地であった。V市日集団はパウエル街中心に発達し栄えた。出稼ぎ労働者が働いていた『お助け会社』がH製材所の近くにあった。下宿屋、旅館、商店、理髪店、娯楽施設があった。経済不況が市を襲い小規模店が倒産し空き家になった建物に季節労働者が住むようなり、仕事を求め低賃金で雇われた人の集落となった。1908年、写真婚女性の訪れにより、独身労働者は家庭を持ち、永住を希望した。1911年のBC州雑誌には『この地域が日本人街には見えなかった』ことが記載されていた。『出稼ぎ者の街』、『流浪の民の町』で冬になると州資源産業(漁業、鉱山炭鉱、林業伐採、製材業、農業)が閉鎖すると労働者はV市に流れて来た。この地域は外国出稼ぎ労働者に安宿を提供していた。仕事を求めここに遣ってきた人達は言葉、習慣、労働条件、生活条件の違いに戸惑い、『労働請負人』に依存し移動した。Carral, Main,Gore, Jacson, Princess, Heatley, Hawks街からGeorgia, Keefer, Pender, East Hastings, Cordova, Powell, Alexander街までの地域に集中していた。

「黒潮」

Rintaro Hayashi Removing a Fish from nets; Steveston, BC Canadian Centennial Project fonds, Nikkei National Museum Collection (2010.23.2.4.545)

Rintaro Hayashi Removing a Fish from nets; Steveston, BC
Canadian Centennial Project fonds, Nikkei National Museum Collection (2010.23.2.4.545)

南の海から北上して来る暖流が日本列島に沿って北東に向かって流れる潮流を黒潮と漁師は呼ぶ。別名『ジャパンカーレット』この流れのつきる所はカナダ太平洋沿岸でクィーンシャーロット島とバンクーバー島、その中間に点在する大小無数の島々の岸辺を洗う浪がある。父子三代八十年、漁師生活日系魚者『漁業』を知り尽くした林林太郎氏の『人物往来』では『倉さん』橋本倉之助さんは青年時代に母国訪問をした。松倉団長と30名は東京観光と当時の首相大隈重信候から招待を受け、加奈陀日系の名誉と考え参加者は全員礼装のフロックコートで人力車で『大隈候邸』の晩餐会に参加した。

「池田鉱山と千金の夢」

1849年、米国カリフォルニア州の『ゴールドラッシュ』後、砂金の新産地を求めて北上してきた人達の群れは新西院河港から色々な経由で大陸沿岸部を移動して行った。当時は大陸横断鉄道の太平洋側の終着駅としてのバンクーバー港はまだ建設されてはいなかった。多くの人がフレーザー河を通る外輪船で辿り着いた終点がホープ市であった。ここから人々は海岸山脈を南北に横切るフレーザー河の大渓谷の絶壁に懸けられた畦道が東に向かう獣道を抜け出て海岸山脈背後の内陸盆地部に入り込み、長続きしない小砂金産地を発見し採掘しながら、ユーコン辺境地で『クロンダイク大金産地』を発見した。47年目の幸運であった。

「緑青岩石」

プリンストン市の南方15kmの所に緑青の染め付く岩石が散在していた。採掘可能鉱石量6900万トン、銅潜在資産が埋蔵されていた。加奈陀全土が氷冠状の分厚い大陸氷河に覆われていた時期が去り、溶け去った後に残された砂層が地域一帯基盤岩を覆い隠していた。3億トンの岩石Similkameen河地域の銅鋼山、ペンティクトン、オカナガン湖、サマーランド、ピーチランド西北30kmのぶれんだ銅山がある。海抜340km湖面から1200m前後の湖岸斜面の間には数段の旧湖岸線が刻み込まれている。最初の開拓者は湖の流出口を切開いて人工的に湖面を下げて開拓地を作り出し、後に果樹園を始めている。内陸乾燥地帯では『水は黄金』である。

「強制移動」

開戦直後、太平洋沿岸部160km以内に居住していた日系人は戦時特別立法により内陸南部の廃止された鉱山地帯に移動された。坑内採掘方式で操業中の銅山から渓谷を隔てて西方建物に収容されていた。独身男性は『シャベルとつるはし』でプリンストン経由のバンクーバーへの近道、ホープへ通じる高速道路を完成させた記録が残されている。

「不思議な森」

1915年、荒れ果てた都会の痩せ地に人が手をかけなくても永遠に続く森を求めて3人の若者が知恵を出しあった。本多静六、上原敬二、本郷高徳氏は常葉樹と広葉樹を交互に植えてアカガンとヌダシーの自然人工森を『照憲皇太后』と『明治天皇』に献上した。70ヘクタールの明治神宮境内の森は『許可なくして入門することができない、神の森』である。そこは異次元の世界で生物多様で人工的な造り、壮大な実験で『本殿』『神戒』があり、森は全体の面積の9割を占める。大隈重信候は乗り気ではなかったが100年の歳月を経て『御境内林苑計画』が公表された。20mを超える高さのクスノキ、森の主は大木30mのムクノキで周りに人が入らない人工森には人工池もある。贅沢な作戦森は三角形の針葉樹もある。植樹直後、50年後、100年後、150年後と続く森には146人の調査専門家が草が生い茂る人工森に招待された。

「人工森と調査団」

この森には全国から10万本の木が市民から寄付された。11万人のボランティアの無償の労働力と貨車は一日に30両の荷物を運んだ。荒れた痩せた土地に松の木と50本の針葉樹を植えた。

この森造り植樹に6年の歳月が追やされ、1920年11月1日に『明治鎮座』は完了した。「菌類班のキノコ調査」この森のキノコ調査に関わった国立科学博物館員は図鑑には記述されていない品種が存在することを発見した。大きなキノコの上に生えたコゲ色菌は150種類以上あった。「水生生物班」人工池には亀類とこの地域では見ることのない魚類種がいて、絶滅と報道されたミナミメダカの存在が確認された。クロハゼやモッコも生きていた。「樹木班」木の幹の大きさ、太さ、高さ、植樹された場所、森の中の全ての木の調査に係り員は2年の歳月を懸けた。草むらの中に咲くカントウタンポポ、森の中の高い木が壁になって不思議な森の生きものを守っている。『立ち入り禁止』の『清正井戸』で狸が水を飲んでいた。