初期の移民とパウエル街

 第二次大戦勃発直後の1942年の日系人総移動まで、バンクーバーのダウンタウン東部に中華街に隣接してパウエル街と呼ばれる日本人、日系人が集中して居住する一角があったことはよく知られている。去る5月は「アジア伝統月間」で、パウエル街の案内つきのツアーも催されている。当時の日系人にとってのパウエル街とは何であったかについて思いつくまま記してみたい。

 1880年代から、その地域に日本からの移民が定着し始めた。初期の移民の大部分が労働者だった。その地域のダンレビー通りの北端、バラード・インレットの埠頭には、ヘイスティングス・ミルと呼ばれる製材所があり、中国系移民や先住民などのグループよりも多い日本からの移民が労働者として雇われていた。その人たちは至近のパウエル街地域の下宿屋などに宿泊していたのである。1889年にカナダ最初の日本領事館がバンクーバーに設立されたことからも、すでにかなりの人数の移民の労働者が定着し始めていたことが推測できる。

 当時、多くの移民は単身の比較的若い男性で、1900年頃の約5,000人の男女の比率は10対1だったと言われている。当時、飲酒や賭博で稼ぎを使い果たすというタイプの単身の男性にたいして、「どうせ金を落とすなら中華街に行かずにここで」と宣伝する日本人向けの賭博場も開設された。しかし次第に妻を呼び寄せ、家族持ちとなる人も増えつつあった。1906年にその地域のアレキサンダー街で現在も活動している日本語学校が設立されたことからも二世の誕生と成長が想像できる。こうして一時的な出稼ぎから定着へというプロセスが進行しつつあった。

 当時、この地域には、労働者の宿泊施設だけではなく、日本人を対象とするさまざまな商店が設立された。日本料理や日本風の中国料理を提供するレストラン、食料品や雑貨を提供する商店、銭湯、理髪店などが開店され始めた。更に日本への送金を手配したり、稼ぎを一時的に保管するなど銀行に準じたサービスや日本人労働者を太平洋沿岸などカナダ各地に派遣する「人材派遣」会社も営業していた。パウエル街では商店の裏で下宿屋を兼業する人が多く、ここは林業や漁業などの遠隔の地の季節労働者にとって、仕事が少ない時期に過ごす憩いの場でもあった。また、製材会社などへ労働者を手配する「ボス」は概ね宿泊施設の所有・経営者でもあった。

1907年の人種暴動

 明治の初年からハワイで日本人移民がサトウキビ栽培などに従事していたが、彼らは賃金の高いアメリカ本土への移住を望んでいた。1907年にアメリカ政府がそうした労働者の本土への移動、入国を禁止したために、ハワイ経由で千人以上の日本人移民がカナダに到着した。このような急激なアジア系移民の増大に反対する約5000人の白人の人種主義者や労働者が「白人のためのカナダを」、「カナダは白人のものだ」などのスローガンを掲げて抗議集会を開催した。そして集まった群集が暴徒と化して、中華街やパウエル街地域 を襲撃し、ウインドウに投石して商店を破壊し、商品に損害をあたえる事件が起こったのである。

 この事件を契機として、1908年に日本からの移民を年間400人に制限する日加両国政府の協定が結ばれ、更に1928年には150人制限されることになった。しかし、その頃までにパウエル街を中心とする地域は日本人の商店や団体が集中して賑わいを見せていた。因みに1908年のバンクーバーに存在した日系の商店や団体は263で、その87% (233)がこの日本人街地域に集中していた。当時、「カナダ日本人会」をはじめとする日系人団体の多くが設立されているが、その理由のひとつとしてバンクーバー暴動によって、自衛のための組織化の必要が感じられたことがあった。

日系労働者の組織化

 上に触れたように日本人移民の多くが製材所で働いていたが、当初、「ボス」と呼ばれた「製材所人夫長」が仕事の手配師として、同じ県出身の移民を組織し、企業主に労働者を提供した。このような組織が企業側にとって低賃金で働く労働者の安定的な確保に好都合で、日本人のボスが効率的に機能していたために、日本人労働者が他の民族グループよりも多く仕事を得ていたようだ。しかしやがて、1920年前後には「ボス」を排除した日本人の労動組合も組織されている。当時の職業別統計でも「製材所人夫長」が1917年の15人から1921年の12人へと減少している。 

 その当時、白人組合の長期ストライキの際に日本人がスト破りのために雇われる事件が起こり、さらに州の公有林での日本労働者使用の禁止が州議会で問題となっていた。1920年5月には州西部沿岸のオーシャンフォールの南、スワンソンベイにあった「ウォーレン・パルプ製紙会社」で白人、中国人、日本人労働者の共同ストライキが起こった。日給5ドル、8時間労働制などを主張してし職場放棄が起こったのだが、その際に日本人の組合、「日本人キャンプ・ミル労働組合」(Japanese Camp and Mill Workers Union)が設立されている。

 その当時に発行された組合の機関紙がやがて1924年には労働者を主な読者とする新聞、「日刊民衆」に発展している。この新聞と組合とが同居する事務所がパウエル街544番(現在の仏教寺院の東)に設置されていた。従来から日本人の組合は白人の組合とは分離した存在であったが、この組合は1927年にカナダの連合体、Trades and Labour Council Canadaに加盟し、連帯を深めた。しかし、1929年に始まる大不況のためにこのような連帯は挫折することになった。以上の様な白人労働者との日系労働者の対立や協力は日系コミュニテイの歴史的体験の重要な一部分としてもっと詳しく知られていいのではないかと思われる。この問題に関しては以下のような文献に多くの情報が含まれている。

  • 佐々木敏二「日本人カナダ移民史」(不二出版、1999年)
  • 田村紀雄 「エスニック・ジャーナリズム−日系カナダ人、その言論の勝利」(柏書房、2003年)
  • Audrey Kobayashi. 「パウエル街歴史散歩」(英文)。Memories of Our Past –A Brief History and Walking Tour of Powell Street. Vancouver, NRC Publishing, 1992.

[文・鹿毛達雄]