人権の擁護か捜査当局の便宜か-反テロリズム法改訂の問題点

 現自由党政権は選挙公約の中で、Bill-C51として知られている昨年春に成立した「反テロリズム法」の改訂を約束した。どのような点が改訂すべきだと考えられているのだろうか。本誌1月号でも触れたように、私たちにはコミュニティを繋ぐ共通体験とも言うべき強制移動と収容の経験がある。したがって、私たちは人権擁護の立場からこの問題に対する対処を考えなければならない。

政府の計画

 今年1月9日付のカナディアン・プレス、ジム・ブロンスキルのレポートによると、トルドー首相はラルフ・グーデール公安担当相に治安関連法規の抜本的な改訂を指示した。首相はBill C-51の問題となる個所を削除して、国家安全に関する責任を明確にしたうえで、国の治安と個人の権利・自由とのバランスを改善する新しい法案上程に取り組んでもらいたい、と指示したのである。

 その準備として、政府は一般市民の意見を聴取する公聴会を予定していると伝えられている。「問題は膨大、かつ複雑なものであり、解決案に至ることは容易ではない。しかし公聴会を催す目的は市民の声にに耳を傾けることである」とグーデール氏は言っている。

 カナダ政府は諜報当局(Canadian Security Intelligence Service/CSIS)が権利自由憲章を尊重すべきだと考えている。そのためには、裁判所が認可した憲章に違反するテロ計画の阻止対策をCSISに認めるという法律の規定の削除が検討されることになると思われる。更に政府は治安・諜報活動を監視する議会の特別委員会の設置も予定している。

航空会社の「搭乗禁止リスト」

 Bill C-51に関連して最近、報道されている問題の一例として、航空会社の「搭乗禁止リスト」(no-fly list)がある。航空会社はテロリズムに関係していると見なされる人物の海外渡航を妨げるためのリストを用意しているのだが、これは氏名だけのリストであり、それに含まれる人物と同姓同名のために、空港でチェック・インの際に厳しい取調べを受けるという次のようなケースがある。

 昨年末、オンタリオ在住の父親と6歳の息子がボストンで行われるNHLのゲームを訪れるために渡航しようとしたところ、息子と同姓同名の人物がこのリストに載っていた。そのために、空港で詳しい取調べを受け、すんでのところで予約していたフライトに乗り遅れるところだったという経験をした。

グーデール公安担当相の下で、この「搭乗禁止リスト」適用を成人に限るなど改善してこのような別人との取り違いを妨げる方策が検討されているようだ。1)   

権限強化を望むカナダ諜報局

 Bill C-51改訂にかんする政府の方針に対して、カナダ諜報局の元高官、ポルテランス、ボアベール両氏は一連の疑問を表明している。両氏は国の安全に対する危険が稀に見るほど差し迫っていると現況を説明して、諜報当局の権限・能力に限りがある現状の打開が必要だと言っている。すなわち、議会による監視と諜報当局の権限という両面からの判断・評価を提案しているのだが、実際には法律(Bill C- 51)の単なる手直しではなく、抜本的な改革による諜報機関の権限の拡大を提唱しているのである。2)

両氏はインターネットの普及などコミュニケーション手段の発達や暗号化によって、国の安全に対する危機が迫っているとして、政府機関の中の危機意識の高まりを説明しているが、市民の立場から私たちは、それと平行して、個人の権利やプライバシーの侵害の危険も高まっていることに注目しなければならないであろう。

アップル社はFBIの要請を拒否

 この問題を考える上で参考になるのがアップル社のケース、すなわち、アメリカのコンピューター関係の企業の情報提供に関するものである。去る12月2日に14名の犠牲者を出したカリフォルニア州、サン・ベルナディーノのテロ事件の犯人、テロリスト夫婦のスマート・フォーンから情報を得て、事件の背景を捜索し、共犯者を発見するために、FBIはパスワード解除に関する裁判所の命令を取得した。しかし、アップル社のティム・クック社長(CEO)はそれへの協力を拒否したことが話題になっている。

 具体的にはどういう問題か。最新のスマート・フォーンやタブレットなどに含まれている情報は所有者本人が4桁のパスワードを使ってアクセスし、読み取れる仕組みになっている。しかし、他人がパスワードを10回試みてアクセスできないとメモリーに含まれている情報すべてが抹消される仕組みなっていて、情報が保護されているのである。FBIはアップル社にそれを解除することを求めた。すなわち「マスター・キー」を入手して「裏口から」保護されていた情報の入手を求めたのである。しかし、そうなると、何百万もの顧客すべてのプライバシーが侵害されることになるとして、アップル社はFBIによるアクセスの要請を拒否したのである。

 この問題について、ニュース・メデイアやFacebook、Twitter、Google など大手ソーシャル・メディアは概してアップル社の立場に好意的である。3) しかし、巷には、アップル社の現在の仕組みが維持されると、テロリストを含めた犯罪者のプライバシーも保護されることになるとして、アップル社には情報提供というより大きな社会的責任があるという批判もある。4)    さらに、この問題に関してアップルの創立者、ビル・ゲーツはアップル社や他の会社がスマート・フォーンなどのロックを解除してテロ事件の捜査に協力すべきだという立場なので、この問題は長引きそうだ。5)

 しかもこれはアメリカに限られた問題ではない。スマート・フォーンやタブレットなどはアジア、ヨーロッパなどの諸国でも製造されていて、製品の中には大幅な値引きで安売りされているものもある。もしも、この問題でアップル社が治安当局に「マスター・キイ」を提供して「裏口」からのスマート・フォーンなど顧客の器具のメモリーへのアクセスを可能にすると、ビジネスに不利な影響があると予想される。ここにアップル社や同業のアメリカ企業に共通するチャレンジがあるだろう。すなわち、外国の同業者は、ここぞとばかり、「アメリカ政府の要求に屈しないわが社は情報、プライバシーの保護に関して先んじている」と宣伝してアップル社を含めたアメリカの競争相手に対抗し、販路拡大を狙うことになるかも知れない。

注:

1) Ottawa aims to improve no-fly list data to curb cases of mistaken identity. The Globe & Mail, February 22, 2016. A1, A9.

2) Luc Portelance & Ray Boisvert. Time for a national security reset? The National Post, February 17, 2016, A11.

3) Apple bites The Man, with good reason. The Globe and Mail, February 19, 2016. Editorial, A10.

4) Apple’s greater duty, Letter to the editor. The G&M. February 20. 2016. F2.

5) Gates, FBI agree on iPhone hack. The Vancouver Sun. February 24, 2016, A11.

[文・鹿毛達雄]