移住者の活躍する団体「箱入り娘の奮闘記」

By 天野美恵子

 日本代表女子サッカーの『なでしこジャパン』11人とカナダ女子との国際親善試合が10月28日V市のBCプレースで行なわれた。熱戦に多くの地元ファンは歓声を揚げた。来年の夏にはW杯国際試合の決勝会場に選ばれたV市は活気に溢れている。International Soccer. Canada’s Women’s National Team Vs. Japan. Tuesday, October 28 at 7pm.

「2つの世界 Michiko Midge Ayukawa」
 貴女はまだ努力していない。『カナダ人になる為の努力が足りない』生前のミッジ鮎川女史が私に残した言葉だった。彼女は2つの世界に住んでいた。①子供の頃、家庭で両親に日本語で話し、日本食を食べて『寝巻き』を着て床に入った。②家から外へ出ると近所の子供や学校で先生と話す言葉は英語だった。彼女が調査した日系歴史書『両親に捧げる』本の中で『カンバーランドの日本人の子供達(2世)は日本語学校でよく学び、多くの子供達が確かな日本語能力を身につけていた。日系市民協会の指導者になり、地域の活性化に貢献している。日英両方語で会話できる能力は2世の視点を1世や世間の人々に伝えるのに非常に貴重なものであった』と書き残している。彼女の両親は廣島県からの移民で結婚後40年経って帰国したが、加奈陀人になり憧れた日本はもう存在しないことを悟った。2人は加奈陀の生活を満喫しそれ以来、日本には戻らなかった。

「津軽藩士族令嬢 Masa Aoki (Mrs.Sadayoshi Aoki) Aoki Family Cumberland」
 1918年に文部省から加奈陀に派遣された日本語教師の青木校長先生の奥さん、青木マサさんは『力と気品』教養ある津軽藩の士族令嬢であった。加奈陀を代表する教育者のテッド(てつお)青木とJCCA名誉理事、音楽家のハリー(ひろお)青木のお母様である。

「同胞婦人観」
 加奈陀記録目標第2巻591頁に当時活躍した福祉婦人は浮田藤枝子、磯村つねこ、鏑木薫子、中村文美子、大木繁子、下高原信子、赤川安子、高島はなこ、内田千登勢、上西しげこ、大澤元枝子、田永てるこ、山本よしこ、河部音羽子、河邊ちせこ、渋谷そのこ、小玉貞子、田代孝子、林よそこ、佐藤松代子、小川芳子、有門しげこ、関根なかこ、盛木かっこ、島森うたこ、松本とりのこ、中村えりこ、牛島くにこ、夏原きくこ、松宮やおこ、前川きりこ、松葉とらのこ、立石哲子、鈴木よしこ、佐藤政恵子、村本松子、上田ともこ、角みねこ、岡崎かよこ、岡本ときこ、甘味きりこ、山本くめこ、家人光枝子、柏すえこ、宮崎照子、松倉つるえこ、北川やえこ、堀井いしこ、新見れんこ、前川とりこ、松井静枝子、野中終子、西村ためこ、井上かねこ(敬称略)

「国際派対国粋派」
 職人労働者の多かった1924年、加奈陀日系社会を取り仕切る組織があった。晩市日本人商業組合、晩市日本人旅館業組合、晩市理髪業組合、晩市日本人洋服クリーニング業組合、ヘーステングソーミル愛友会、加奈陀日本人戦友協会、加奈陀日本人労働組合、加奈陀日本人青年同盟、の8団体があった。地方組織としては、須知武士道漁業慈善団体、新西院日本人会、ビクトリア日本人共和会、レーモンド日本人会、コモックス区自治会、オーシャンフォールス自治会、プリンスルパート日本人協会、第2区漁業者協会、オカナガンセンター交友会、ケローナ日本人農業会、ミッション日本人農会、平寧農会、ハモンド日本人農会、ウォーノックアルビンラスキン日本人農会、サンマーランド日本人農会、アクテブバッス日本人農会、ウッドファイバーいち心会、ポートアリス友愛会、ダンカン日本人親和会の19団体とフレーザーミルス同和会、新ウエストミンスター農会も加入予定であった。加入予定を除く27団体の会員数は3806人であった。

「箱入り娘の日記」
 廃鉱となった寒村で土の中に埋められた古い旅行カバンの中から変色した黒い手帳が発見された。書かれた日記が英語の文字ではなかったので多くの女性の手を渡って私に届けられた。小さな手書きの文章は日本女性の『排斥日記』であった。

「美市から晩市へ」
 1942年4月22日、忘れることの出来ない思い出の日、娘時代から住み慣れた第2の故郷、美市に別れを告げて私達はここを立ち退くことになった。
 この日記の主は『俳号は小百合』さんで東京都下豊多摩郡渋谷村の茶製造兼養蚕の家号『豊島園』のお嬢さんであった。順天堂病院看護科5年卒業後、モンテング船(英国船)でビクトリアに到着、ガバメント街にあった雑貨商店、『永野万蔵』氏に働きながら、オリエンタルほーむ東洋女学院に通学していた。

「俳句名は小百合」
日本は私の『肉の故郷』、加奈陀は私の『霊の故郷』。私は心から加奈陀を愛し、加奈陀が大好き。排斥地を移転しながら、牧師様と共に霊峰で祈り原始的な生活を送り、ただ平和を祈りました。『湖畔の思い出』は4年間、書き綴られた。

「キヨウシ Kay 清水」
ケイさんがUBCの社会福祉学部の大学院生の時、戦争が始まり政府補助員として働き、福祉事務所を設立する事業に係わった。ご主人は日系加奈陀市民会議の書記兼通訳で州保安委員会の2世代表の一人だった。1982年ご主人の死後、活動運動に係わりオタワで委員会の議長を務めた。その後、V市に移転し1988年にビクトリアに定住した。福祉活動家としての思い出を『悪臭の中で母親のスカートにしがみついて泣いていた子供たちの顔と途方に暮れた多くの人々の顔を忘れることはできません』と語った。

「ハルコ小早川」
1921年渡加、2世のご主人とV島コートネイで過ごし、彼女はその地域の最初の日本語教師として働いた。1941年に日本へ帰国していた時に戦争となり、1948年10月までオンタリオ州に排斥された、ご主人と離れて暮らした。1970年までトロントに定住していたが、ご主人の死後、V市に戻ってきた。彼女の『親戚は廣島の原爆で失い、爆発音を聞き、破壊した街も目撃した。大きなキノコ形の雲が覆いかぶさり、その後に黒い雨が降ってきて多くの人が、その空気を吸って死んでいきました。』1984年から亡くなる日まで、彼女は日系かなだ市民協会の会員だった、(1902年-1989年)

「田頭ますえ夫人」
1992年3月8日に83歳で亡くなられた田頭ますえさんの追悼式が、3月13日に日系人合同教会で行なわれた。JCCAを代表してロイ三木氏、隣組を代表して鹿毛達雄氏が追悼の辞を務めた。生前の彼女は『貧困と困難と悲劇、そして不法な扱い。そんな苦しい時代を歩んできても、それでも私は加奈陀が大好き。悔やむことはない、なぜなら毎日を精一杯生きてきたから。』と笑顔で語った。『仕事はきつかった。でも全く気にならなかった。何故って、私には輝く希望があったから。寂しいなんて感じたこともなかった。若い時は何をしても辛いなんて思わない。何もかも楽しみに変えてしまう、そんな魔法みたいな時期なんですね。』と言葉で私を巻き添えにして、気が付いた時には私も彼女と行動を友にしていた。彼女は大きな声で『我が人生に悔いはなし』と叫んだ。

「関連記事」月報1990年6月号36、37、38、39、40、41頁、1991年10月号51頁、1992年4月号36、37頁、2013年3月号63頁、「正された歴史」1995年参照。

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