世代を超える<おかげさま>とフェアプレイの精神 朝日軍最後の一人が語る

日系カナダ人のパイオニアたち

 <日系カナダ人のパイオニアたち>とは、カナダ日系社会内外において各々の分野で同僚や一般大衆に認められる顕著な貢献をした、又はしつつある日系男性女性たちとのインタービューを基にした準定期連載シリーズ、今回が第一回です。 シリーズは一定期間続ける予定です。皆様ご自身の体験と照らし合わせて、幾分でも面白いことや有意義なことを読み取っていただければ幸いです。

ケイ・上西さんとチームメイト (1940年代に撮影されたもの。上西さんは向かって右端、グローブをつけている少年。2010.26.31, Reggie Yasui Collection, Nikkei National Museumデータベースより)

ケイ・上西さんとチームメイト
(1940年代に撮影されたもの。上西さんは向かって右端、グローブをつけている少年。2010.26.31, Reggie Yasui Collection, Nikkei National Museumデータベースより)

   初対面のケイ上西氏、会って数分でその迫力に圧倒されしまった。長年の記者生活で大分スレてしまった当方だが、齢93歳の同氏はまるで悟りをひらいた禅僧のごとく、自己に対しても周囲に対してもいつも自然体、平常心で接している様だ。唯一の情熱の対象をひたすら追い続けて人生を生き抜いてきた人物の重みとでも言うか。また、それを可能としてくれた日系人達や一般カナダ人達たちに対して感じている深い感謝の念も、言葉少なげながら、はっきりと伝わってきた。

 その情熱とは野球だ。上西氏は実に、第2次世界大戦(太平洋戦争)前のBC州、特に地元バンクーバーの日系社会を熱狂させた、あの伝説的セミプロ・チーム朝日軍の選手の中で生存する最後の一人なのだ。 ひと時でも 世代間の価値観の隔たりを忘れ一丸となってて朝日軍の活躍に熱狂した一世、二世、老若男女数千人がパウエル・グラウンド(現Oppenheimer Park)やバンクーバー内外の球場に詰めかけたものだった。

 嬉しかったのは、快く取材に応じてくれた<朝日軍最後の一人>が矍鑠としておられた事だ。どの試合でのどのプレー等など過ぎ去った日々の思い出は鮮やか、齢70歳の当方の記憶力を上まわる程だ。とりわけ情熱を傾けるベースボールの話となると目が輝いてくる同氏だ。「最近もっとも嬉しかったのは、<新アサヒ軍>の青年と少年チームが結成されたことです」と同氏。往年の朝日軍が蘇った如き、日系人や在住邦人の野球好きが発起人となり日系、在住邦人等の青年やテイーン達が参加してできたこれらチームの中に<ハパ>の子達が多いのは「良いことです」由。

 往年のアサヒ軍が蘇ったかの如くの<アサヒ軍の再来>は奇しくも去る1914年、ミッキー北川等北川三兄弟、宮崎松二郎、トム的場等が中核となって朝日軍が結成されてからおよそ1世紀経っていることだ。アサヒ軍の復活を夢見ていた、現在のバンクーバー・アサヒ(成人チーム)のコーチ、オガワ氏がCanadian Nikkei Youth Baseball Clubに参加を誘われたのは、昨年例の日本映画バンクーバーの朝日(The Vancouver Asahi)の世界初公開がバンクーバーで催されてから間もない頃だった。実在の朝日軍を題材としたフィクション映画だが、人気俳優の配役により日本の一般大衆に戦前活躍した朝日軍の存在を印象付けた意義は大きい。

 上西氏が朝日軍に入ったのは1939年。「ついに朝日軍の白地に赤文字でASAHIと書かれたユニフォームを支給された夜は興奮して一睡もできませんでした。何しろ小学生の頃から試合を見に行ったり憧れていましたから」と同氏。しかし、チームはやがて日系人の強制立退き・収容の為解散を余儀なくされる。「生涯あれ程落胆したことはありませんでした。未だ3年しかプレーしていないのに。つぼみのうちに摘み取られた気がしました。」朝日軍の栄えある歴史はここで終わる。上西氏自身はたまたま真珠湾攻撃が勃発する前、1941年6月にお母さんと共に日本の故郷広島市を訪れていた。その後敵国となったカナダへの数少ない船便がなかなか確保できず、二人がやっと横浜を立ちバンクーバーに向かったのは1942年10月、カナダ行き最後の便、船は氷川丸だった。日系人の立ち退き・強制収容が始まり当時25歳の上西氏はタフトの道路工事就役 (road camp)行きを命じられ汽車の切符まで支給された。「でもお母さんを独り残して行くことはどうしてもできませんでした。パウエル・グラウンヅ付近に白人が所有する和風旅館があり、母はそのマネージャーだったので、そこに2週間くらい潜んでいました。3階立てで60室ありましたから、挙動不審の者を探している警官が訪れる度にどれか一室に隠れたものです。」 

 「結局、私達は収容先を選ぶ許可を受け、リルエット( Lillooet) に行くことにしました。」川に跨るリルエットの商店街は当時サウス・リルエットにあり、日系人達は郊外のイースト・リルエットに家とは名ばかりの小屋を建てて住まなければなかった。日本映画バンクーバーの朝日では何かパウエル街地区に集中した下層市民のような印象を受けるが、当時マウント・プレザント、キツィラノ等の地区、否パウエル街地区にも中流階級の生活を享受する日系人がたくさん居た。「リルエットまでの旅費、小屋建設用の資材等など全て自前でした。」

 野球が三度の飯より好きな上西氏は、リルエットでは唯一の元アサヒ軍選手だった。「グローブやバットを持っていたのは僕だけだったと思います」由。親善を兼ねてRCMP守衛係りにソフトボールの試合をやろうとチャレンジした。当時日系人を見たこともなかった内陸の町の人々は、当初川向うの収容地区の日系人を恐れていたが、警官チーム対日系の試合が収容地区とサウス・リルエット町内で毎週交互に開催されるようになると、町の人達はまず<ジャップ>、即ち日系二世が英語を普通に話すのを聞いて驚く。やがて日系人は町内で試合がある時は町の商店で買い物をすることを許可された。日系人は必ずキャッシュを払うので店主たちは大歓迎したが、その背景には多く住んでいたファースト・ネーション(原住民)の人達が貧乏で<ツケ>でしか買い物が出来なかったという厳しい現実があった。

 上西氏のように、元アサヒ軍選手だった面々は廃坑のある町跡など各収容地先々で野球を通じて現地の白人住民等と交流を深めた。レモンクリークやスローカンでは元アサヒ軍選手が多かったので本式の硬球で日系人同士の練習試合をしたそうだ。

 1947年、カムループスに引っ越す上西氏がリルエットを後にした日、友達になった町の人々は涙を流したそうだ。当時に遡る日系人と白人の家族ぐるみの友人関係が今も続いているケースさえある。1945年の日本帝国の敗戦により自由の身となった当時25歳だった上西氏だが、バンクーバーに戻らずカムループスに行ったのは「野球がしたかったからです。」カムループスのカトリック教青年団体のチームに入った上西氏。同氏の参加により強くなった同チームは1949年にオカナガン・リーグで優勝したそうだ。

 収容所に強制送還された屈辱にさえ耐えつつアマチュア・ベースボールの発展に貢献した元アサヒ軍選手達は去る2003年2月、ついにカナダ野球の殿堂入りを果たした。上西氏の他に、ケン沓掛、キヨシ菅、ボブ樋口、ミッキー前川及びマイク丸野と朝日軍全選手74名のうち残った7名がついにカナダ野球の殿堂入りを果たしたのだ。  この名誉に当時81歳だった上西氏は「一晩一睡もできなかった出来事」を再度体験する。カムループスの日刊紙The Daily Newsに上西氏は心境を当時こう語っている。

「身に余る光栄です。Wow! とても言葉ではあらわせない気分です。たかがアマチュアの私達が野球の殿堂入りとは。何たる光栄でしょう。」

 朝日軍が結成されてから実に89年経って、カナダのプロ野球界がその貢献を認めたのだった。

バンクーバー朝日軍についての記念碑設置のお披露目式典に参加時のケイ・上西さん(2011年9月18日 ジョン・遠藤・グリーナウェイ撮影)

バンクーバー朝日軍についての記念碑設置のお披露目式典に参加時のケイ・上西さん(2011年9月18日 ジョン・遠藤・グリーナウェイ撮影)

 上西氏の思い出話は尽きない。抜群の記憶力で夥しい数の興味深いエピソードが出てくる。細事まで書き込んだら本が2、3冊出来そうだ。限られたペースの関係、最後に同氏の身上について伺ってみた。日系人の<永遠のテーマ>、self- identity(自己認識)については「もちろん自分はカナダ生まれのカナダ人です。でも深いところで、どこまで自分は日本人なのだろうと考えたりします。」

 また「フェアプレーの精神とスポーツマンシップが一番大事です」と同氏。戦前の現役時代は25、6歳だったが、当事は日系人を蔑視する審判もいたのだろう、特にコン・ジョーンズ・パーク球場その他相手の本拠地でプレーする時にひどい事もあった。明らかに生還セーフなのにアウトにされ、白人を含む朝日ファンの観衆がグランドに雪崩れ込むようなトラブルもあった。「スポーツマンシップを尊重する我々は審判がいかにアンフェアでも黙って受け入れ、絶対に抗議などしてはならない」と監督は厳しかったそうだ。

 インタービューは英語に日本語の表現や単語が混ざるような形で行われたが、同氏が「どうしても英語でうまく言えない」という日本語表現の一つは「おかげ様」だそうだ。わかるような気がする。英語など各印欧語はおおむねロジックに基づいているのに、日本語は情感に支配されがちだ。例えば水辺に生える葦だが、<アシ>が<良し悪し>の<悪し>を連想させるという理由だけで、葦を対語の<ヨシ>と読ませてしまう国民性なのだ。野球選手の場合、観に来てくれるファンの老若男女をはじめ、チームの監督、コーチ、道具係り、トレーナー、通訳、カスタム用具を作ってくれるメーカー先の職人、さらにサポートしてくれる奥さんや子供達 と、面識のない人々を含め、みんなの世話になっている。だから<おかげ様>なのだ。メジャー・リーグでも人望と品格のある一流選手は大体そうだが。

 今でも孫、ひ孫の世代の野球少年、野球青年らの指導に情熱を傾ける齢93歳の<老兵>の野球一筋に生きて人生は<現在進行形>だ。お別れする際、「先生は私の人生さえも幾分豊かにしてくださいました。ありがとうございます」とつげた次第だ。

[文・渡辺正樹]