個人を尊重しよう<何々世代>は関係ない

      「お父さんの言うこと聞きなさい!」今やグローバル時代を謳歌し益々複雑化する世界だが、私たちの多くは、幼い頃から物事の良し悪しを模索しつつも、いつもそう叱られて育ってきた。恐らくこうした<格言>は儒教主義の影響を受けている日本、韓国・朝鮮、中国、シンガポールなどの国々で、年齢に関わらず理性と個人の人権が浸透している西洋よりは重んじられているのではないか。<年長者は尊敬すべし>という価値観は人類普遍のものだろうから、これは限られた範囲の話しだ。

  とにかく、カナダのティーン・エージャーだったら父親に対して「お父さんの意見はそれなりに尊重するけど、それでも間違っていると思うよ」と言えるだろう。しかしアジアの伝統社会・文化に育った親の多くは、息子や娘にむかって「やっぱり貴方が正しい、お父さん(お母さん)が間違っていた」とは中々口にできない。何を隠そう、自身もこの歳になってなんとかこの<障害>を克服しようとあせっている有様だ。

    しかも日本人(日系人も?)には会社、労働組合、同業組合、官庁、OB・OGを含む文化やスポーツ関係親睦団体から有名人の年次飲み会まで、特定のグループへの帰属意識が強いという国民性がある。活字や電子メディアに常に自分がどれかの年齢層に属すると洗脳されているうちに、自身<自分は団塊世代>、<…バブル世代>、<…ジェネレーションX>や<…ミレニア世代>などと思い込むようになってしまう。

   ニュース、メロドラマ、クイズ番組、名画の再放映その他昼間からテレビを見ている者は年齢に関わらず、必ず自動車椅子、入れ歯、補聴器、頭痛、流感や疲労に利く(?)錠剤その他様々な医療品のCMの集中砲火をあびる。スポンサーが昼間からテレビを見ている者は高齢者が多かろうと推定、必ず症状の一つや二つはあろうとふんでいるからだ。

         東洋人だからなのか、堅物だからなのか当方が一番ゲッソリするのが例のバイアグラその他<回春薬>の類のCMだ。理由はちょっと説明を絶する。夕日が沈む南国の海辺で愛の眼差しを交わす二人…くらいだったら我慢できる。でも、モーターバイクに彼女を乗せて日沈の地平線に向かって疾走する主人公、二人ともお揃いの革ジャンで決めて、はどうかと思う。  まだ先がある。日が暮れると二人は最寄のモーテルで急停車して脱兎の如くその一室に駆け込む。エンディングは待ち切れぬように消える室内の電灯。 これって一体CMなのかコメディなのか。

     脱線してしまったが、年齢層それぞれが当てはまる色々な世代の一員だと言うことにそれほど特別な意義があるのか、と問いたい。

    以前当コラムで、それほど上手くもないが、かれこれ50年近くギターをやってきたことに触れた。ビートルズやローリング・ストーンズの数曲を辛うじて真似たリヴァプール・サウンド全盛60年代の学生時代の東京、国際通信社に勤めた4年間はロンドン、ローマ、ワシントン、80年代から16年住んだシンガポール、そしてここ18年間はバンクーバーと各地でロック、ラテンやら少しずつジャズもやってきたが、大きな取り得はすぐ仲間や友達ができることだ。当方のレベルではジャム・セッションが多く、ギャラを貰って演奏する<ギグ>は昨今少し増えたが数少ない。一番良いのが結婚披露宴、めでたい行事なのでホストは<祝儀>をはずんでくれるし、ご馳走やワインも出る。

 ヘイスティングス街にある老舗ホテル<ザ・パトリシア>は戦前セミプロの野球チームをスポンサーしており、かのアサヒ軍と共も付近の小球場、現オッペンハイマー公園で戦ったこともある。同ホテルでは毎週月曜の夜、老若男女、年齢は18歳より80サムシングまでミュージシャンや歌手が集うジャム・セッションが開かれる。

 ある月曜の晩、常連の<年配ジャズメン>たち、ピアノ奏者のジェリー、皆ドラム奏者のマイク、ジェリーとレイ等とたまたまステージ前のテーブルに陣取って怪気炎をあげていた。   年齢は皆さん80サムシングで<若造>の当方ももう70歳になっちまった。ふと仲間のレイが呼ばれてステージに上がり一曲たたいた。次のドラム担当はこれも常連、善良で気のいい若者ジェイソンがレイと入れ替わりのステージに上がった。その時間髪いれずシニア仲間の一人がキツーイ野次を飛ばしたものだ。「ジェイソン君よ、そんなジーサンに負けるなよ!」

 我々シニア組は可笑しくてゲラゲラ笑っている。だが周囲のまだ純粋にコルトレーンやマイルズ・デイヴィスを目指して頑張っているカピラノ音大のジャズメンの卵たちにはジョークが通じない。その一人があわてて「There is no competition ! (これは競争じゃないですよ!)」などと叫んでいる。<俺たちも始めた頃はああだった…>と年寄りたちは感慨無量。

 <自分は何々世代>と思い込むのはおかしい、と教えてくれたのが作家伊集院静の人生相談コラム<悩むが花>(『週刊文春』連載)で、最近次ぎの様な相談があった。

「僕はいわゆるロスジェネ世代ですが、十年くらい上のバブル世代が鬱陶しくてたまりません。能力もないのに好景気のお陰で大手都銀に入り、出向先のうちの会社でも威張っている。

 それに較べて僕らは就職から氷河期で、いつも割を食わされています。伊集院さんも景気のよい時代に、華やかな業界で活躍してきた勝ち組ですよね。僕らみたいな若者の気持ちはわかりませんか?」

伊集院氏の応えは明快だ。

「君ね、“ロストジェネレーション”などという訳のわからん言葉を使うのはやめなさい。或る世代をひとつの言葉でくくるほどバカげたことはないから。わしは“団塊世代”という言葉を聞くと虫酸が走るよ。あんな卑しい日本語はないから。一個人をナメタ言葉でくくるんじゃない。”バブル世代“もそうだ。”バブル”というのは、あの時代にあっただけの現象ではないんだ。中世のヨーロッパでも、チューリップの球根ひとつで家が買えるというバカげた景気現象があったんだ。」

「それと“いつも割りを食わされる“も口にするな。誰かが食わされるんなら、俺が食ってやろうじゃないのくらいの気概を大人の男は持たないとイカンでしょう。…いいかね、人間を勝ち組、負け組みという物差しで見る輩というのは、普段、他人のことが気になって周りをキョロキョロ見ながら生きとる臆病者でしかないんだよ。…レッテルというのは、バカな輩が貼りたがるもんで、自分から貼るバカがどこにいる。」

 読んでいてスッキリしませんか。自分も無意味に<団塊世代>なんていうのは止めることにしました。秋も深まるこの頃、皆様どうぞ美味しいものでも食べてお元気で。

[文・渡辺正樹]