移住者の活躍する団体「先祖の記憶」

By 天野美恵子

お正月に帰省した友人からお土産に『トラヤの和菓子』を頂いた。長方形の羊羹の中に『富士山』が描いてあって白いお皿の上で私に微笑んだ。♪我は海の子 白波の 騒ぐ磯辺の松原に
煙たなびく とまやこそ 我がなっかしき 住家なれ

「静岡県」
熱海、伊東、熱川、東伊豆、河津、白浜、下田、南伊豆、松崎、西伊豆、田子、大仁、伊豆、長岡、清水、沼津、原、富士、蒲原、富士川、由比、三島、袖師、興津、三保、松原、焼津、吉田、相良、御前崎、大浜、大須賀、福田、浜松と海岸線に沿って自家用車を走らせる。

「ヤマハぴあの 山葉寅楠(1851-1916)」
静岡県浜松市に日本楽器製造株式会社がある。創業者の山葉氏は日本最初のオルガン製造者で『日本ピアノ製造業者』でもあった。1887年に浜松尋常小学校の壊れたオルガンの修理に成功をきっかけに創業を開始した。1889年(明治22)合資会社『山葉風琴製造所』を設立した。1897年10月12日に資本金10万円で『日本楽器製造株式会社』を設立、初代社長に就任した。1900年にピアノ製造を開始、1949年『東京証券取引所株式』に上場した。

「やまはオートバイ」
1954年にオートバイの製造を開始、1955年オートバイ製造部門を楽器部門と分離させて『ヤマハ発動株式会社』を設立した。1958年には『スポーツ用品製造』を開始し、最初の海外法人を北南米に設立した。1962年には住居用品の製造を開始した。1965年には管楽器の製造に乗り出し、1966年『財団法人ヤマハ音楽振興会』を発足した。

「静岡新聞社来加」
日系百年の1977年に静岡新聞社から記者が杉山氏を訪ねて来加した。『移住した人々』を取材する目的があった。当時、バンクーバー総合病院勤務の宮城島医師と杉山氏、新聞記者と戦後移住者の6人が取材のため集いをした。V市からは『大滝氏』『天野氏』『山梨氏』、バーノンから『大石氏』の人生体験記が海外移住者、加奈陀からの記事として載った。

「静岡県人会の発足」
♪ 生まれて塩に 浴みして 浪を子守の歌と聞き 千里よせ来る 海の気を吸いて 童となりにけり / 戦後の県人会は初期会長に風間氏、第2期に川口氏、第3期は大村氏が務めた。会員には神谷さん、斉藤さん、上沢さん、猿谷さん、安田さん、五明さん、藤本さん、土屋さん、久永さん、松田さん、後藤さん、水上さん、和田さん、布谷さん、三好さん、堀さん、江崎さん、小森さん、大石さん、鈴木さん、藤波さん他、200名が会員が登録している。2001年まで日本語、ジョージ斉藤会長の頃から英語記録で『ayumi2002』ニュースレターが残されている。

「庵原新聞」
1990年(平成2年)10月14日の新聞記事の中には『由比町で国際交流』女性の国際意識と理解を深めるために県内在住の外国人と婦人達が一堂に会して語り合う『女性による国際交流』が県国際交流協会主催、庵原三町、蒲原町国際交流協会後援が由比町民館で開かれた。

杉山岩吉(1891-1990)
1891年(明治24年)11月11日、静岡県清水市中町で魚業と海産物加工業、販売業を営んでいた杉山平七、みね夫妻の三男として誕生した。多忙な家業で幼児期から母親の背中にくくりつけられて育った。少年時代は父母の許で家業の『魚屋』を手伝い、魚の加工、製造、魚介類の買い付け、荷造り、出荷万端に従事し冬期には大きな荷車を引いて村松街道から折戸、駒越方面まで買い付けに走った。当時の清水は港の発展と共に外国船の往来が激しく、仕事上の英会話養成学校が設立されていた。彼の2人の兄、清太郎、常吉は加奈陀に渡加していた。

「運命の出会い」
彼は清水を発ち、静岡から36時間かけて長崎港へ行き上海に渡った。3日間、勝田館に滞在し5月30日に『日本郵便船』北野丸の先客となり英国ロンドンに向かった。船の中で四国出身の船大工『福山千吉』青年とであった。渡航中の7月25日『明治天皇の崩御』大正の新年号を知った。2ヶ月の航海を終えてロンドン港へ到着した。英国リバプールで当時、唯一の日本人『牧野宅』に滞在し日常生活に必要な西洋マナーを学んだ。

「加奈陀入国」
10月5日にモントリオールに向かい、11月22日にモントリオールに船で上陸しカナディアンパシフイク鉄道に乗り大陸横断しバンクーバーに到着した。日本を出発して6ヶ月で最終目的の長兄の許に着いた。その2ヶ月後、ブリタニア湾に船で渡り、鉱山雑用労働者となり質素な生活、倹約3年5ヶ月で貯めた資金で起業した。

「生涯の盟友」
船大工の福山氏の努力で『船の建造』、魚屋の杉山氏の才格で水産業界に突入し、『鮭の買い付け』に励んだ。1918年(大正6年)12月に2人共に休暇を取り観光団として海を越えてそれぞれの故郷に帰省した。1919年(大正7年)1月23日に清水市折戸の岸山徳三朗の四女、千代子さんと結婚した。福山新夫妻と杉山新夫妻は新婚旅行兼観光の後、4月に加奈陀へ戻った。1926年(大正14年)業務拡張でハウサウンド漁業会社を設立し漁業、海産物加工、製造、輸出業を学んだ。1928年(昭和3年)バラード魚株式会社を設立、『海鮮問屋』として卸売り業を並営した。1933年ギャリアノ島にてカナデアン練漁株式会社を設立、練漁と海産物加工製造、輸出業を業務として20年以上に渡り経営した。

「戦前の静岡県人会を創立」
この頃、必要に迫られて県人会を運営した。当時の加奈陀は未開地で英国の植民地で資源が豊富だった。移民制度もなく、世界経済不況で貨物船に乗り込み潜りで太平洋を渡る人が後を絶たなかった。県人同胞を救い庇護するために県人会は作られ同胞はお互いに助け合った。

「明和学園」
1936年(昭和9年)同胞子女の日本語教育を願って『明和学園』を創立し、7年間に渡り業務委員長を務めた。自費で日本から先生を招いて語学、道徳、作法、和裁、洋裁に至るまで『日本の子供』『日本の女性』として恥ずかしくない教育を子供に学ばせるための努力をした。

「日本赤十字社」
1936年に杉山氏は妻の千代子夫人と共に『日本赤十字社の終身会員』となった。1940年に在加邦人で唯一人の選挙権保持者として、その年の選挙戦に参加し一票を得た。当時の英字新聞1940年12月12日には『Japanese gets right to vote, only one Japanese casts vote in city 』と掲載している。杉山岩吉Iwakichi Sugiyamaの氏名を明記している。

「ヘンリー杉山氏 Dr. Henry Sugiyama 」
杉山岩吉、千代子夫妻のご子息の記事が2014年9月19日の金曜日の地方新聞で取り上げられた。From ‘enemy alien’ to 87-year-old student 戦争の犠牲者 Dr.Henry Sugiyama first one admitted to inaugural Asian Canadian studies program at UBC 戦後69年後に大学から杉山氏に届いた大学入学の通知だった。プロビンス紙 The Province.com News A8に記載されている。

「船大工の神谷二郎氏」
今年の敬老会で104歳の神谷氏はB市の加奈陀明治村に『日本式お風呂』を41年前に制作建造した。あまった木材から『日本式おはし』を創作し加奈陀社会に大きく貢献なさっている。奥様のとねこさんは静岡市小山で神谷こうすけ、よね夫妻の5娘の長女として誕生した。彼女は1936年にジロウ常木さんと結婚した。1937年に神谷夫妻は渡加した。1941年にピットメドウに15エーカーの土地と4寝室のある家も持っていた。戦争排斥で3息子とマニトバの砂糖黍畑で働いた。1949年にキャムロップスに移動し、1951年にV市に戻った。
「日本式庭園 Japanese Garden, Mayne Island,B.C.」トシ斉藤氏は友人とメイン島のD湾に『無給労働奉仕』で『長時間と愛情を込めて』日本式庭園を創作した。