映画『バンクーバーの朝日』レビュー 91歳のファンの視点から

永田深幸

永田深幸

永田甲斐

永田甲斐

永田深幸(旧姓:吉田)さんは1923年バンクーバー生まれ。日系カナダ人が強制収容されるまでパウエル・グラウンド(現オッペンハイマー公園)で朝日軍の試合を楽しんだ経験を持つ。昨年12月〜1月の年末年始ににバンシティー・シアターで再公開された石井裕也監督による『バンクーバーの朝日』を観た感想を孫の永田甲斐さんが深幸さんにインタビューをした。

甲斐 実際の朝日軍の試合はどんな感じだったの?

深幸 球場はいつも人がいっぱいで、男性達は選手がしくじろうが、うまくやろうが構わず叫んでいたわ。とても楽しかったのを覚えているわ。

甲斐 お気に入りだった朝日軍の選手はいる?

深幸 ショートのロイ・山村。キツラノ出身だったわ。 球が来たらいつでも準備ができていた。球がどこに行くかわかっていて、すばらしい選手で、大人気だったわ。キャッチャーのレジー・安居、ピッチャーのナギー・ニシハラ、一塁手のユキ・宇野、内野手ののフランク・白石。フランクの両親はフランクの車に乗せて、私を試合に連れて行ってくれたの。車には座席が2席しかなかったのだけれど、フランクが運転して、その横に彼の両親が座って、私はランブル・シートに座って行ったの。ドキドキだったわ。

甲斐 当時のオッペンハイマー公園周辺はどんな感じだった?雰囲気とか、匂いとか。

深幸 いい匂いが漂っていたわ。醤油の香りとか、焼き物の匂いとか。道を通るだけでお腹がすいたのを覚えているわ。2、3ブロック内で何でも買えてね。日本の本屋さんが2件あって、最低でも1件お菓子屋さんがあった。魚屋さんもあって豆腐やかまぼこも売っていた。森さんという人がそのお店をやっていたわ。銭湯もあった。たくさんの家族たちが小さなアパートに住んでいたから浴槽のあるバスルームには住んでいなかった人が多かったの。簡易宿泊所のようなところもたくさんあったわ。

甲斐 その場所が再現された映像をを映画館の大きなスクリーンで見てどう思った?

深幸 球場の周りはいつも人の行き来が絶えない場所で、映画ではその描写が見られなかったと感じたわね。映像では背景や建物は見せたけれど、多くの人の行き来は見なかったわ。

甲斐 十分なエキストラを配置しなかったってことかな。

深幸 そうね。ちょっと違和感を感じたわ。最初はどうしてかわからなかったけれど、球場の周りの道の忙しい感じが十分に伝わってこなかった。古い車、歩行者やストリートカーが走り回っているパウエル通りの感じがね。

甲斐 その他に気がついたことはあった?

深幸 映画での球場は実際よりも大きかった!それか、カメラのアングルでそう見えたのかもしれない。実物は小さかったわ。だからいつも人であふれ返っていたの。映画では、観客が一部を除いてとても静かで上品だったけれど、実際はいつもうるさくて、立ち上がって腕を振ったりといった賑やかさがあったわ。

甲斐 映画のキャラクターはどう思った?

深幸 日本人の俳優だったから、英語がそこまでうまくなかったわね。二世はおしゃべり好きの北米っ子だからね。映画では二世は実際よりも静かだったわ。

甲斐 映画で強制的に移動させられた場面についてはどう思った?

深幸 戦後の日本について電車の中で読んだ内容を思い出したわ。誰もが電車に窓から乗って荷物もそこから投げ入れる光景。でも私たち移動した時にはそういった光景を見なかった気がするわ。

甲斐 実際には何ヶ月ものプロセスだったんじゃない?

深幸 そうね。移動は初春から始まったわ。バンクーバーから一番離れたところに住んでいた人たちが最初に移動させられたの。オーシャンフォールや、バンクーバー島、ガルフ島に住んでいた人たちね。でも、バンクーバーに住んでいた人たちは一番最後だったの。私の家族は10月に移動させられたわ。だから電車の駅で人だかりができて送り合うといったことはなかったわ。多くの人がその頃には移動させられていたから。

甲斐 最後の質問。もしフィルムスタジオが来て永田さん、あなたが作りたい映画を作りますと言ったらどんな映画を作りたい?

深幸 (笑)それは難しい質問ねー。

甲斐 (笑)くせ球を投げてみた。

深幸 そうねー、日本から来た日本人が三、四世代でどのように変わっていったかっていう映画かしら。生活は次第に良くなっていったけれど、少しづつだったわね。一世と二世は一番辛い思いをしたと思うわ。三世はカナダ人として受け入れられたわ。だからそう大変ではなかったと思う。四世は100%カナダ人。今五世の時代になってきている。この変化は面白いと思うの。

1938年に撮影された吉田ファミリーの写真。深幸さんは後方右側で当時は15歳。

1938年に撮影された吉田ファミリーの写真。深幸さんは後方右側で当時は15歳。

当インタビューは短縮・編集がされています。The Bulletin・げっぽう1月号の英語セクションに掲載されました。

[文・永田甲斐]