大戦終結から70年―日系人の経験を想起しよう

1946年に日本に追放されてBC州スローカン市を出発する日系人家族。 NNM1994.76.3.a-c

1946年に日本に追放されてBC州スローカン市を出発する日系人家族。
NNM1994.76.3.a-c

今年は第二次大戦が終結してから70年になる。連合国の人びとが勝利を祝い、「満州事変」以来、15年来の継続的な対外戦争を経験していた日本の国民の多くが、敗北に終わったとはいえ、平和の到来に安堵したとしても当然であろう。

1945年に終わらなかった大戦中の措置
 しかしここで想起したいのは、カナダの日系人にとっては、大戦中の非常事態が1945年に終わらなかったことである。すなわち、第二次世界大戦がアジア太平洋戦争へと拡大された1941年12月7日の直後に、1914年に制定された戦時措置法(War Measures Act)が発動された。この法律に基づきカナダの連邦政府は数々の緊急命令を発布し、日系人の強制移動と収容、財産の没収や売却などが行われたことはよく知られている。
 この戦時措置法に基づく緊急命令の有効期限が1945年末に満了することになっていた。そのために、その有効期限を延長するための国家非常事態転換期権限法(National Emergency Transitional Powers Act)が 年内に可決、制定された。それによって移動の自由の制限をはじめとする日系人にたいする大戦中の措置がその後も維持継続されることとなった。特に既定の方針であった日系人の国外追放、市民権の剥奪が可能になった。そして以上のような日系人の移動の自由などの権利の制限や剥奪はその後4年近く、1949年3月31日まで維持されたのである。端的に言えば、日系人にとっては大戦勃発を契機に導入された人種差別に基づくさまざまな措置が大戦の終結した1945年には終わらなかったのである。

日本への追放
 1945年の大戦終結に伴うカナダにとっての差し当たっての問題は日系人のカナダ各地への分散や国外追放、すなわち日本への送還の問題であった。その背景には次のような事情があった。BC州選出の政治家たちは日系人がBC州に戻って来ることに絶対反対で、他の州でも大戦後まで日系人を在住させる積りはなかった。このような事情に対処するため、当時のカナダ連邦首相、マッケンジー・キングは大戦終結の1年余り前の1944年8月4日に連邦下院で演説し、日系人に対する政策を詳しく説明している。首相はその演説の中で、(1)日系人の人口がBC州に集中していることが人種的反感を引き起こしたのだから、カナダ各地に分散する、(2)この政策に従わない者はカナダに忠誠でないと見なして強制送還する、(3)自発的に希望する者の帰国を奨励し、援助する、(4)近い将来の日本からの移住者受け入れを禁止する、などの方針を明らかにしたのである。
 その後、ヨーロッパにおける連合国側の勝利が差し迫ったものとなった1945年4月以降、BC州の各収容所に滞在させられていた日系人をはじめとして、カナダ在住の日系人全員を対象に日本への帰国を「希望する」か否かの調査が実施された。その結果、当時の日系人、約2万4000人の40%以上に当たる1万632人が帰国を申請している。その後、帰国申請を撤回しなかった3964人が1946年にカナダ市民権を放棄させられ、日本に追放された。(参照:鹿毛「日系カナダ人の追放」1998年、pp. 31, 49-50.)言い換えれば、カナダ政府による日系人追放政策も人種差別思想に基づく大戦中の移動と収容という「緊急処置」の延長線上にあったのである。
 かって、大戦勃発直後の時点では、日系人の移動と収容を市民の人権侵害として批判し、異議を唱える声は当時の反日感情の高まりに圧倒され、かき消されがちであった。しかし、連合国側の勝利が確実となった大戦末期から大戦後にかけて、「暴政にたいする民主主義の戦い」という連合国側の戦争目的が一般の人々にも理解され支持されるようになっていたから、それと矛盾する政策や処置にたいる批判が高まりつつあった。それにもかかわらず、当時のカナダの場合には、重大犯罪を犯した自国市民を国外に追放するという過去の前例が引き合いに出された。そして、日本に人種的起源があることが国外追放に値する「犯罪」と同一視されたのである。

過去の経験に学ぶ
 昨年10月にはオタワで連邦議会議事堂の警備兵の銃撃、殺害事件が起こり、さらに新年になってイスラム教の預言者マホメット(Muhammad)の風刺漫画を掲載したパリーの週刊誌「シャルリー・エブド」(Charlie Hebdo) に対するイスラム系テロリストによると見なされている襲撃と編集者などの17人の殺害事件が起った。私たちにとってテロ行為に反対しなければならないのは当然であるが、しかし同時に心すべき問題のひとつは、国内のテロリストと呼ばれる人々や「イスラム国家」に対する早急で感情的な反応の危険性である。国外、国内の「テロリスト」の行動のきっかけとなっているとされる昨年8月以来のアメリカ、カナダを含めた西側諸国によるイラク国内の「イスラム国」」(ISISあるいはISILとも呼ばれる)に対する爆撃の背景やその意味を十分に検討することなく、連邦政府は国内のテロ事件への対応策として、警察や公安当局の権限を強化して市民を監視し、民主的権利の制限を導入しつつある。これに対して、かっての日系人の経験に基づいて、私たちには特定の民族、宗教集団を対象にしたプロファイリング、すなわち監視や取り締まりの危険性を指摘する責任がある。仮に人権の制限や侵害などの「行き過ぎ」があっても、後から補償すればいいではないか、という管理体制強化の弁護論があるが、それは人権擁護の観点から受け入れがたい。
 昨年夏以来のカナダも参加しているイラク国内の「イスラム国」に対する爆撃に関連して、イスラム国の主たる目的はサウジ・アラビア、エジプトなど中東の近隣諸国における過激派の軍事的優位であって、西側諸国に対する敵対は問題にしていない、という説もある。もしそうだとすれば、爆撃は敵でないものを敵にしてしまうという効果を招いている、ということになる。しかも爆撃の目的は短期間のうちに達せられそうも無い。イラクに派遣されているアメリカ軍の司令官は反乱軍にたいする軍事行動に関して、それがが転換点に達するには「少なくとも3年はかかるだろう」と言っている(「バンクーバー・サン」、2014年1月16日)。今までの、そして、これからの同地における一般市民の殺傷や生活への影響など、基本的権利の侵害には計りがたいものがある。このような現状やかっての日系人の経験を念頭に置きながら、中国のことわざ、「前事不忘、後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)を思い出している。私たちは日系人の立場から、内外の指導者たちにこのことわざに示された先人の知恵に学んでほしいと要望したい。

[文・ロレーン・及川、訳・鹿毛達雄]