移住者の活躍する団体「樹形図」

 世界遺産に登録された『和食』、おもてなし料理を我が家でもテレビの『きょうの料理』テキストを活用して造ることになった。正月料理の祝いの乾物、農作を祈る田づくり、いつも健康でまめまめしくと願う黒豆、子孫繁栄を望む数の子、一の重は口取りで白紅かまぼこ、栗きんとん、だて巻き、のし鶏、りんご羹、盛り方は奇数の種類を盛り合わせるのが重詰めの決まりで、二の重は里いもの含め煮、こぶ巻き、野菜のいり煮、いかの松笠焼き、三の重はアジの酢づけとしめ鯖、菊花かぶ、七色なます等のさっぱりした口当たりで喜ばれる伝統食品である。

「雑煮」
 東京風はかつお節、塩、醤油のすまし仕立て鶏肉、切もち(焼いて入れる)、小松菜。
京都風は求肥こんぶ、だしこんぶ、かつお節、白味噌に丸もち(湯煮して入れる)、頭いも、小いも、大根に結びこんぶを頂点に添え、花かつおを真ん中にのせる。

「炭鉱労働者」
 V島カンバーランド、ユニオン炭鉱周辺には2つの日系集団村があった。第1、第2日本町と呼ばれていた。炭鉱労働者は季節契約労働であった。昔そこで賄い婦として働いたMさんによると『生野菜はじゃがいも、人参、玉ねぎ、とキャベツでした。乾物、干物、それらを混ぜていりこで炊きました。干物はレンコン、ごぼう、昆布、豆腐、大根などで魚の缶詰や肉は半年に1度だけしか支給されなかった。』『卵やハムは自分の給料から買って各自で食べていた。』
そこでの生活は午前4時に起床し、朝食と弁当のご飯(米15キロ)を炊く辛い日々だった。

「製材所労働者」
 異国からの雇われ労働者は『木材の運搬と積み上げを行うために製材所やその周辺で仕事をしていた。』BC州の産業で日本人が雇われるには『ボス』が人材斡旋の役割を果たしていた。1897年代は滋賀県人でなければ製材所に仕事を得ることは困難であった。製材所での作業言葉は滋賀方言でボスは雇用者記録も母国語で書き残していた。労働者は仕事に不満があれば移動を繰り返した。『職業的にも地理的にも簡単に次の場所と楽で儲かる仕事を求め』放浪した。当時の下宿屋での食事は朝食はご飯と味噌汁、夕食はご飯と野菜と干し魚が定番であった。

「子供のために」
 オードリー小林の論文For  the Sake of the Childrenによると1893年カナダ在住の日本人は単身男性が多かった。日本人移民の3つの段階、①1903年までの出稼ぎ時代②女性の到来③家族の定着、に分けられる。家族を持った男性は生きてゆくために自給自足の農業を選んだ。

「苺農家に嫁いだ女性」
 98歳のハツさんは日本で小学校の先生をしていて結婚適齢期を逃してしまった。親戚の紹介で渡加し、20歳も年上の男性と結婚した。夫には3人の兄弟がいて同居しながら家族と親戚が一緒になって苺農家を取り仕切っていた。夫は長男で兄弟と配偶者と親の10人家族だった。苺農家の労働特徴は女性も男性と共に『つるはし、クワとシャベル』を持って低木が茂る硬い土地を開墾し、苺の苗を1本づつ手で植える作業をした。毎日、午前4時に起床して、朝食を作り昼食のおにぎりを用意してから鶏と馬に餌を与え、皿を洗い、洗濯をして干してから家族と共に畑に出て、夫が操作する手動耕作機の後ろを馬で歩かせ土を耕した。雑草を取る作業は困難だった。夕食の準備をするために家族より早く家に戻り、夕食後は片付けをしてから又、畑へ戻った。苺の収穫期は早朝から夜中まで畑で苺を摘み、箱に詰めた。5月から9月までの間は多種類の苺ができた。嫁の仕事は、苺を摘む人達の食事を作ることでした。米炊き、味噌汁を40人分用意しました。野菜は自分たちの菜園から採れたものを調理した。週一度V市からやってきた行商人から干しレンコン、ごぼう、ひじき、豆腐、かまぼこ等を買いました。お金さえあれば何でも買うことができた。炊事当番の嫁は毎日毎日、朝早くから家事に追われ年中無休で給料なしで、苺の季節が終わると、果物缶詰工場に働きに行ったり、家政婦として仕事を取る嫁もいた。何しろ忙しく、敗れた衣類を繕ったり、農具の手入れ等やる事が山程あった。

「森林伐採の妻」
この頃の移民男性の仕事は農業、漁業、森林業、鉱業、鉄道工事等の危険な非熟練労働に従事していた。ボタ山で森林伐採の仕事をしていたキクさんの夫は倒れて来た木の破片が目に入り片目を失った。その後、製材所で働き、そこで事故にあい指を3本、失った。夫が見舞られた不幸な事故によって苦しい生活を送った。9人の子供を抱え暮らして行くのに大変な苦労を重ねた。家計を支えるためにキクさんは洗濯とアイロンかけの内職をした。『ヒープス』と呼ばれる地域には多く家族によって構成された共同住宅の長屋があった。

「安い共同生活支援の長屋」
この長屋は窓口の狭い長方形の2階建ての天井が低い造りで小さな家が集まり、一棟は12軒から出来上がり、端から端まで真ん中に壁があり、片方に6軒づつ家が並ぶ造りでした。そこで幼少時代を過ごしたケイさんは『長屋に住んでる家族は幸せでした。共同住宅の住民が若い家族に支援を提供していました。私が4歳から13歳まで1924年から1933までの事でした。母が出かけるとき他に5人の母親がいて私たち子供を世話してくれました。姉と私は子供たちの中で年長者だったので小さな子供と遊んでゲームを考案したり、絵を描いたり、楽しく学ぶことの多い週末や夏休みを過ごした。父が伐採事故で左足を失い歩くことが出来なかった。9年間も入退院を繰り返し、母は取り乱し、私の家族はこの長屋の他の5人の母親たちの助けのお陰で立ち直れ今、生きている。私たちが住んでいた一階には、真ん中に廊下があり、西側には4つの大きな部屋がありました。裏側には広い空間があり、台所と2つの洗面所と調理台があり、東側には5つの部屋があった。それぞれの部屋は廊下につながり入り口があり、部屋のいくつかは内側の扉が部屋同士を繋いでいた。この階に住む2家族が3部屋ずつ借り、私の家族は両親の部屋と子供の部屋でした。長屋の設備は質素で
台所や廊下の掃除は交代で行い、電話は正面にあり長屋の人全員が共同で料金を支払い、お風呂は地下にあり、共同で維持していた。』と回想している。

「高学姉妹」
男性中心社会で苦労したのは夫を事故で亡くし、幼児を持つ母だけではなかった。学歴の高い2人姉妹も驚くべき自立心を持っていた。1902年、1906年生まれの2人姉妹は地方の裕福な家で育った。多くの女性たちは高等女学校を卒業していた。が、仕事を見つける困難だったからドライクリニング、仕立て直し、洋裁、下宿屋、など自分で出来ることで小さな店を開いていた。V市には女性従業員の『丁寧な仕上げ』で成功した洋裁屋があった。
「先駆者たち」
ヘネー日本人農業者の山家安太郎『記録書』によると最初の日本人農民は1904年に山口県出身でピットメドウズで農業を営んでいた男性であった。『働いても働いてもお金は無かった。』自営者になるために努力を重ね県人が互いに助け合った。大きな杉の木を切り倒し、小屋を建てた。大工道具や弁当を持ち寄り、低賃金労働者は寄り添い、隣人を励まし支援した。住まいを建てる時や井戸堀は皆で協力して汗を流した。
「産婆さん」
フェアビューと2番街に立石さんという助産婦がいた。V市在住の女性たちの多くは彼女に助けを求めた。たが、地方の伐際採キャンプや製材町、漁村や疎開の未開墾の農地に連れていかれた若い女性達は『辛い仕事』が待っていた。その当時の女性は厳しい労働と『孤独』に悩まされていた。友達や家族と離れ、契約日雇い労働者の40人分の食事の用意や日常生活の世話をしなければならなかった。水を汲み上げ、数個のなべの米を磨ぎ、マキで炊き、干し魚や根野菜でおかずを作り、泥まみれの衣類や松ヤニの付いた上着や魚の臓物の付いた血生ぐさいツナギを盥で洗濯板で汚れ落としをしてから洗う重労働を強いられた。言葉が通じない不安と『お産』はたいへん辛い経験であったと当時を回想した96歳のタキさんは私に語った。でも『お正月』は特別で豆腐がなく、湯で卵の白を小さな4角切に見立て『味噌汁』で祝いました。

[文・天野美恵子]