遥かに及ばずとも 模範としたい 健さんの生き様

我々在外邦人や日系人、国内の同胞も、団塊世代の男性達の多くが似た様な心境で受け止めているのでは。喪失感において皆の心が一つになったようだ。そう、昨年11月享年83歳で亡くなった名優・高倉健氏のことです。また一介の同世代在外同胞としては、その昔祖国で過ごした懐かしい少年・青年期と、健さん(と、どうしても愛称で呼びたくなる)の任侠モノが一世を風靡した時代が重なることもあり、いっそうの寂しさを感じる。
 <安保>(日韓安全保証条約)反対の学生たちが警官隊と衝突するデモが相次ぐ不安な社会情勢の1970年代、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、筋を通して、ついに復習を果たす」という彼が演じる主人公は、学生運動家、サラリーマンから工員まで当時の若い世代の熱狂的支持を得、オールナイト上映にも立ち見が出る程ファンが溢れた。
 当時学生だった当方、新宿のコマ劇場辺りの映画館で、背中に刺青(ホリモノ)を入れ、抜き身の<長脇差(ドス)>を引っさげて出入りに向かう健さんのド迫力に痺れたことはあり、また渋い刑事役でマイケル・ダグラス、松田勇作らと共演した『ブラック・レイン』(リドリー・スコット監督、1989年)も楽しんだ記憶もあるが、あえてファンという程でもなかった。それがどうだ。あたかも長年親しくしていた親戚の<お兄さん>が亡くなったかの如く、喪失感はなぜか意外と深く、また映画関係者や芸能人を始め各界有名人の追悼や想い出話を活字・電子メディアで読み進むに連れ、健さんという人物のスケールのデカさと周囲に対する配慮に満ちた魅力的な人間性に触れて、改めて感じ入った次第だ。
 彼の魅力的な人柄を思い起こす<いい話>は、とてもこのスペースには納まらない程たくさんあるが、幾つか拾ってみる。
彼が敬愛していた山口組三代目<親分>田岡一雄の娘、エッセイスト田岡由伎さんは二人のことを「漢と漢の関係」と書いていた。芸能人と「ヤクザとの付き合いが許されない時代になりつつありました」当時、持病で入退院を繰り返していた親分を健さんは必ず見舞ったそうだ。「自分の腹に聞いて、正しいと思うならやったらええ」「はい……分かりました。」まるで映画のワンシーンのようだったそうだ。
 『ブラック・レイン』で共演したロックンローラー・内田裕也は健さんの「すごさ」の
例を二つあげていた。英語がうまく「あの人の英語はクリアでグラマーもちゃんとしてた。
まさしくブリティッシュ・ジェントルマンだったよ。」もう一つがユーモアのセンス。昼食時に内田氏は松田勇作、安岡力也、ガッツ石松らと一緒にかたまって食べていたが、健さんは最初のその輪に加わらなかった。そして彼らが「何だよ、大スターはカッコつけて自分のバスで食ってんのか」などと言ってると、突然健さんが輪に入ってきて一言「こんなにいい所があったんですか!」事情を読んでわざと見計らった、絶妙なタイミングだったそうだ。
 また健さんの魅力は国境を越えていた。
 中国では政府外交部・報道局の広報係りが記者会見で{高倉健先生はは中国人民だれもが良く知る日本の芸術家であり、中日間文化交流の促進に重要かつ積極的に貢献した。われわれは哀悼の意を表す}と語った。『君よ憤怒の川を渉れ』(1976年)は中国に輸入され国民の半数が観たとされている。また映画監督監督・張芸謀は『単騎、千里を走る』の中国ロケの際、健さんが休息中も他のスタッフに遠慮して立ち続けていた事や、現地採用の中国人エキストラの面々にまで丁寧に挨拶しているのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と語っている。
 米国ではメディアが「日本のクリント・イーストウッドが亡くなった」と報じた。欧米で健さんは、『ブラック・レイン』で演じた寡黙な老刑事役で一番良く知られている。同作品で米国の捜査官を演じたマイケル・ダグラスは大阪京橋でのロケで、大勢のファンが憧れの健さんに群がるのを目の当たりにして「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ、スターがこれほど尊敬されるのを見られるのは」と感嘆していたそうだ。同作品で共演したアンディ・ガルシアは健さんの人柄について「与えられるより、与えることが好きなんだろう」と言った、とは同じく共演のガッツ石松の想い出だ。
 小細工を省き、演じる人物のの心情を数少ない言葉を表すのが同氏の演技だった。本番は原則的に1テイクしか取らせなかったそうだ。「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と語っている。「俳優にとって大切なのは。造形と人生経験と本人の生き方…生き方がでるんでしょうね。テクニックではないですよね。」
 次に健さんの付け人を長年つとめるなど、彼が心を許した数少ない人達の一人、5年歳下の西村泰治さんの話だ。「泰治、人に好かれるような人間なりなさい。人を怖がらせるようなことをしたらいけない。」読んでいて突然、20年前に亡くなった親父に諭されている小学生時代の心境になった。親父には「正樹、周りに対して思いやりのある人になりなさい」とよく言われたものだ。大人になると会う機会も少なくなり、そう注意されることもなくなったが、今でもその点においては、理由、事情が何であろうと、人の気を悪くさせるような事をしてしまうことが時折ある。因みに泰治さんは、健さんの説教にもかかわらず、ある日、健さんの悪口を陰で言っている人が訪ねてくると、殴ってしまい、破門されてしまうが、後に女優・吉永小百合の取り持ちで許される。
 健さんは、文芸春秋2015年新年号に、亡くなる4日前に完成したという原稿「病床で綴った最期の手記」を寄せている。その中で親交が’深かった阿闍梨(酒井)雄哉氏に触れている。「生き仏ともいわれる阿闍梨とは、壮絶な修行千日回峯行ののち認められる。酒井さんは1980年と1987年の二度満行されている。千年を越す比叡山の歴史の中で、二度の満行を成功させたのはたった3人しかいらっしゃらない。」かつて健さんが『南極物語』(1983年)に出演するかどうか悩んでいた時期に、その阿闍梨氏から贈られた言葉が<諸行無常>であり「<往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし>」阿闍梨さんが浮かべる満面の笑みとともに、僕に一つの道を示し続けてくださっている。合唱」と健さんが記した最後の文は終わっている。
 自宅に近い寿司屋の愉快な主人Tさんは、四国出身、バンクーバー生活が25年だが、
彼いわく健さんはたまたま日本人に生まれた宇宙人だとか。健さんありがとう、あなたは
俳優、芸術家、否それ以上に世界に通用する立派な日本人男性の理想像でした。気軽に<余生の生き様の模範としたい>などと抜かしたりすると叱られるような気さえするが、自己精進のはるか彼方の目標としてみたい。

(各談話などは『文芸春秋』、『週刊文春』及びWikipedia日本語版の記事より引用させていただいた。)

[文・渡辺正樹]