鮭が生まれた川に戻るように:岸辺慧

 70年前の1946年夏、親に連れられて日本へ向かい、成人してから祖国カナダに戻ってきた二世たちはバイリンガルで個性派ぞろいだ。周囲と違っていることをいとわない自立した「個」を感じる。ともすると日系社会の主流に埋没して周囲に気遣いながら育った二世とは明らかに異なっている。この違いはどこからくるのだろう。

 確かなことは、敗戦後の混乱の最中に投げ出された幼い日々の不安や孤独を、各々が自力で乗り越え、日本社会に適応しながら自己を形成したことだ。彼らの多くは帰巣本能に手繰り寄せられるようにカナダに戻って来た。だが、そこで彼らを待っていたのは二度目のカルチャーショックだったはずだ。それをどうくぐり抜けたのだろう。岸辺慧(けい)さんにお話を伺った。

 約10年ぶりの再会の待ち合わせ場所は、トロントのギリシャ人街にあるペイプ図書館の前だった。

「僕は昔この図書館で働いていたのです」。えっ!と驚くふりをしたが、彼がトロント公立図書館員だったことは知っていたので、予めそうかもと思ってはいた。でも、次の言葉には、思わず小躍りした。

「ここの主任だった時に、子供のセクションに勤めていたのが、今の妻メアリーです」。うわ、ギリシャ人街はそんなロマンチックな出会いを演出してくれたのか。「いえ、当時はイタリアンの街でした 」。オー、ソレミヨ!1970年、慧さんが32歳の時だった。

●ニューデンバーの4年

 1938年、バンクーバー市内アレキサンダー通りで生まれた生粋のジャパンタウンの子。1940年、日本へ向かう声楽家で俳優の伯父中村哲サリーを見送りに行き、船の甲板から投げられたテープを母の腕の中で握ったのを覚えている。  

 そして戦争勃発。ヘイスティングス・パーク収容所のコンクリートの床とベッドを仕切る布のカーテン。その中に幼稚園があった。そこに連れていかれたが、母と離れられなくて泣いた。「2回しかいかなかった」と苦笑いする。収容所から家に荷物をとりにいったことも覚えている。二度と戻ることはなかった。

 祖父母、母、兄と慧の5人家族。父は既にロードキャンプへ行って不在だった。だから父の記憶は彼が終戦後にアングラー捕虜収容所から戻った時から始まる。父・貫一は一家を引き連れてまっすぐ郷里の函館を目指した。そして、一年後に他界した。日本で生まれた幼い弟を加えた一家4人。3人の息子を抱えた二世シングルマザーの心労は想像に余りある。

 長男は中学を卒業すると進駐軍の仕事を始めた。その縁で母も日本語文献を英訳する仕事を得て、ようやく生活が安定した。

 慧(8歳)は小学2年に編入した。「最初に学校に行った時に、漢字のテストがあって、月という字を書けと言われて、書いたのを覚えています。ああ、ちゃんと書けるんだということで2年に編入させてもらいました。読み書きは、ニューデンバー収容所の学校で、田中先生(田中文次郎の妻)から教わっていました」。最初から全く日本語には不自由しなかった。勉強しなくても成績はよかったという。

 では、収容所はどうだったか。「楽しい思い出ばかりです」という。二世世代といっても、年長組の夢や計画が踏みにじられているが、1936年生まれのデビッド・スズキのような年少組はそれなりに大自然を楽しんだようだ。

「デビッドと僕は従兄弟同士で、彼が母親に連れられてスローカンからニューデンバーに遊びに来たことがあります」。デビッドの母親セツは、慧の母アキの妹。母の兄がサリーとフランク・ナカムラだ。ともに朝日軍の選手だった。

「デビッドの父カーがわざわざ父と祖父に、(日本への)帰国を思いとどまるように説得に来たことがあります。後でそう聞きました」。

 母方の祖父辰喜は、1904年にカナダに渡ってきて早くも2年後には頭領になって伐採者を率いていた。「長く熊本県人会の会長をしていたと『加奈陀同胞大鑑』に記されています。祖母・文美は、最初の日系移民女性といわれるオオヤ・ワシジの妻ヨウの養女となって日本から渡ってきたそうです」。

●本屋が好きだった

 慧さんから見せてもらった自家製の 「My Hakodate Album・1947−1954」。小学低学年から函館西高校1年でカナダに戻ってくるまでのクラス写真やスナップを編集したアルバムは、最近開かれた同窓会のために制作した。

 1947年の小学2年の学級写真はちょっと痛々しい。50名余りの生徒は、女子は全員オカッパ、男子は丸坊主。だが、足下を見ると裸足の子がほとんどなのだ。その中で1人だけ坊ちゃん刈りの男の子がいた。それが岸辺慧君だった。高校1年の写真を見ても、丸坊主か学生帽の男子の中で慧さんの額の上にだけは、前髪がさらりと横に流れている。ちょっと奇異である。

 髪型は校則になくても暗黙の規制があったはずだ。それに、1人だけ違った髪型をするには本人の意志と親の了解が合致していなければ、周囲の咎めを跳ね返すことは不可能だったはずだ。慧さんは「特別」ではなかったのか。「さあ、理数系が得意な内向的な子供でしたけど」と本人は言う。

 二世の母(1909年生まれ)は始めからカナダに戻るつもりだった。45歳で姉の嫁いだスズキ家を頼ってオンタリオ州ロンドンに戻ってくるとベーカリーで働きだした。

 「ロンドンは大きな街なのに本屋は一軒だけでした」という。なるほど、本に飢えていた戦後日本の函館とは大違いだろう。「ヘミングウェーなどロストジェネレーション文学や、ニーチェの哲学書を読むのが好きでした」。そのままウェスタン・オンタリオ大学に入り西洋古典哲学を専攻した。「なんにも役に立たないことを勉強していることが楽しかった」という。

「英語は自然に戻ってきました。逆に、全く日本語を忘れてしまって、トロント大学の大学院に入って引っ越して来た時、日本語で話しかけられても言葉が出てこなかったですね」。

  日・英語の歴史書を読み解き、新しい視点を日系史に提示してもいる。定年退職後、第一次世界大戦にカナダ軍の義勇兵として出征した日本人移民たちに関する自著「Battlefield At Last」(「最後の戦場」の意)を上梓した。この経緯は次号で触れたい。

 2011年の東北大震災に話が及んだ時、慧さんは「あの時は、関東大震災の時にたくさんの朝鮮人が虐殺されたことを思い出しました。あんなことだけはしてくれるなよと思いました」という。1923年、震災後の混乱の中、朝鮮人5千人以上が、自警団の手によって撲殺されている。戦時の恐怖と混乱の中で、突然敵と見なされ、強制収容され、身ぐるみ剥がれて追放された経験を持つ日系人ならば、デマに煽動されて敵と見なされ大量に外国人が殺された事件を想起するのは自然なことかもしれない。日系人の「集団の記憶」がそこに垣間見えた。

“Battlefield At Last” 出版後に著者・岸辺慧さんに話を伺った。(日系ボイス2007年10月号掲載)

“Battlefield At Last” 出版後に著者・岸辺慧さんに話を伺った。(日系ボイス2007年10月号掲載)

1954年、函館西高校1年当時の慧さん(Photo: courtesy of Kaye Kishibe)

1954年、函館西高校1年当時の慧さん(Photo: courtesy of Kaye Kishibe)

[文・田中裕介]