戦後70周年:一世・川尻岩一

川尻岩一さん。1993年、 キャッスルビュー ・ウィチウッドタワーズの自室で思い出の写真に囲まれて (photo: Yusuke Tanaka)

川尻岩一さん。1993年、 キャッスルビュー ・ウィチウッドタワーズの自室で思い出の写真に囲まれて (photo: Yusuke Tanaka)

「…人として生まれたからには、何か他人のためになることをしたい」  老一世にインタビューしていると、もし自分が、あの日、あの時、あの場所にいたら、いったいどう対応していただろうと思うことが多々あった。その意味で、1993年に川尻岩一さん(当時94歳)をトロントのシニアホームに訪ねた時のことは忘れられない。「後世に遺して置きたいので、話を聴いてくれませんか」と乞われて2度出かけていった。  「若い頃から、喘息持ちで心臓も悪く、生きてせいぜい50年だと思っていました。当たって砕けろというか、肉弾三勇子の心意気はありました。人として生まれたからには、何か他人のためになることをしたい、という気持ちですね」という。とても潔い。旋盤工として勤め 、退職後はトロント日系文化会館の理事長も務めたことがある。 101歳で天寿を全うするまで、 生きる気概に満ちた人だった。 ●真珠湾に沈んだ日系コミュニティ   開戦直後、日系の要人40名近くが逮捕された。川尻さんの住むメイン島でもRCMPが数名を連行していった。  「誰の目にも何の関係もない人たちであることは明らかでした。日本軍が攻めて来た時に水先案内人になる可能性ありとされたそうです」。アルマイト製弁当箱の写真を掲載して、「無線機だ」と報道された例もある。  公安上、日系人の存在が何ら問題ないことは連邦政府に報告されていた。こういった「第五列」、つまり敵側につく恐れのある人たちを、誰がどのように特定したのだろう。   逮捕された人の中に、日本語学校の田中時一校長がいた。終戦までオンタリオ州アングラー戦争捕虜収容所でキャンプ・リーダーだった人だ。1945年、 沖縄に連合軍が侵攻した時、「敵はとうとう術中にはまった。これで日本は勝てる」と日記に書いた人である。大本営発表を鵜呑みにしていた。  一方、北村高明さんのように、「私はカナダ市民なのだ」と理不尽な外国人登録を拒否してアングラーに赴いた一世もいる。  この裏で、間違いなく日本軍に協力するであろう人が逮捕をのがれてもいる。 賭博場・昭和倶楽部の森井悦治総長である。国家主義者集団・黒龍会の会員 を自称していたというが、確証はない。1942年2月、日系人の移動に際して、森井さんは、BC保安委員会から委託されて混乱なく日系人たちを移動させる手伝いを始めた。 この「森井委員会」は、男子だけを道路建設に送り出し、自主的にカナダへの恭順の意を示すことで、総移動を回避しようとした。  なぜ裏社会の親分が日系人代表となったのか。彼にはもう一つ表の顔があった。「帰道館」の主として警察官の柔道訓練を託されていた。また、 不法滞在の摘発等にも協力していた。当局から非常に信頼されていたのである。   ところが、森井親分の予期せぬことが起きた。「男子のみ出頭」という、日系人分断政策にたいして、二世たちが猛烈に抵抗し始めたのだ。家族単位の移動を主張する二世マス・エバキュエーション・グループ(NMEG)である。この一員となった日比堅さんは、夫が道路建設へ行ったために、幼子数人を抱えて途方にくれる母親を見て、「こんな非人間的なことは許せない」と立ち上がった。  一方に、コウ・エビスザキさんのように、「自分らはただ政府に楯突いたRebel(反抗者)だったんだ」とあっさり言う二世もいる。彼の斜に構えた姿勢はアングラー収容所でも変わらなかったようだ。「キャンプ・リーダーの田中時一?あんな人のいうことなんか信用するはずないだろ」とも言っていた。捕虜収容所の日系人たちは、日本のナショナリストからカナダ人として抵抗する者までいた。 決して一枚岩でなかった。  興味深いのは、 NMEGの集会を警察に密告して、わざわざ自分たちを逮捕させた二世もいることだ。帰加二世の岡崎勝昌さんが言っていた。領事館が閉鎖された後、三浦書記生という人が現れて、進んで捕虜収容所に行けという。この戦争はいずれ日本が勝つ、その時は英雄として迎えられるだろう、カナダ政府から賠償金ももらえる、とそそのかしたという。つまり、打算に基づく「民間義勇兵」として 、 捕虜収容所に向かった日系人たちもいた。  6月、BC州保安委員会は最終的に家族単位の移動を受け入れた。NMEGの勝利である。こうしてリーダー格のボブ・シモダ、フジカズ・タナカはじめメンバーたちは胸を張ってアングラーに向かった。  注目すべきは、この後、NMEGメンバー が二分したことだ。 リーダーたちは一冬過ごした後、続々と出所して東部で仕事を見つけて生活を築き始める。その一人の米倉ハリーさんは言う。「うちら二世の目的は達成したのだから、収容所にいる必要なんかなかったのです」。一方に、岡崎さん、ヒデオ・タカハシさんのように、一世リーダー田中時一さんの補佐となり終戦までいた二世もいる。同じ二世でもカナダで教育を受けたか、日本で皇国教育を受けて帰ってきた二世であるかの違いに由来するようだ。 ●独りで「強硬派」に挑む  話を総移動令が出た1942年3月に戻そう。川尻さんは、森井委員会を信用して、率先して鳥取県人30数名を含む総勢108名とBC州レンペアにある道路建設現場へ向かった。長老(44歳)でもあり執行部長となったが、「強硬派」からも「穏健派」からも憎まれた。白人の監視下で働かされる若者たちはいらだっていたという。「ちょっとでも雨が降ると仕事を放棄する。それでいて、金は寄越せというんです」。中に、流暢な英語で白人監視兵と雑談する二世がいた。即座に忠臣愛国の「強硬派」たちの敵意が彼に集中した。その二世とは、戦後に日系市民協会の会長となり、戦時補償を求める長い運動を開始するキンジ・タナカだった。   彼と同室になった川尻さんは「立派な青年だと思いました」という。ある時、執行部は労賃の昇給が不公平だと恨みをかった。話し合うことになった。「彼らの小屋に行くのは本当に気が重かったです。おそらくやられるのは間違いなかったからです」。行く途中に誰が置き忘れたか狩猟用ナイフが木に突き刺さっていた。「気がついた時には、それを懐に入れて歩いていました」。  このナイフは逆に命取りになりうる危険な武器だった。「話し合いに行くのであって、喧嘩をしに行くのではない」と最後の一瞬に捨てたという。案の定、その小屋では、ぺらぺらと白人と話しているのが気に入らないという感情論が吐露された。キンジが「じゃいいですよ。話しませんよ」と言った途端に下駄が飛んできた。  その時、川尻さんは逃げるのではなく、逆にキンジの前に出て彼をかばったという。「日本人同士で血を流すのは恥ずかしいとは思わないのか」と怒鳴った。今、テープを聴いても、川尻さんの声は94歳とは思えないほど張りがある。「あの時逃げる素振りを見せていたら、間違いなく暴行に及んでいたはずだと後で聞かされました」という。  キンジ・タナカはこの後トロントへ向かい、戦時中に他の二世たちと日系民主主義委員会を結成する。ここで彼の本領が発揮された。ある意味で、「強硬派」 たちに対するリベンジとも言えるだろう。  そして、1945年の春まだき、カナダ政府は「(戦後に)日本へ帰るか、東部に再定住するか」と選択を迫ってきた。この時、またしても「強硬派」の鬱屈は、リーダーの川尻さんに向けられた。 日系人の多くは「神国・日本が負けるはずはない」と信じて疑わなかった。そんな中で、日加の将来を視野において「移民には移民の役割があるはず。私はカナダに残ります」と宣言する川尻さんの存在は特異だったはずだ。「国賊だ」と取り囲まれたという。(次号に続く) [文・田中裕介]