北米市場初の<カッコイイ日本車>を提供した 先駆者 

 日系カナダ人や米国人が、乗るクルマを<メード・イン・ジャパンか否か>を気にせずに自分の趣向で選ぶようになってどれ程の年月が経っただろう。今日たまたま好みでトヨタ・レクサス、ホンダ・アコードなり日産ローグを乗り回している様々な人種や国籍のドライバーの中には、もちろん日系人も含まれる。だが日本製のクルマが初めて北米市場に登場した1960年代、日系人たちはそれこそ<間違っても>日本車には乗らなかったものだ。 

 以前<XXXならあなたは日系カナダ人/米国人>というウェブサイトをご紹介したことがあるが、そこに載っている想い出の数々に<両親(または祖父母)は大きなアメリカ製のクルマに乗っていたが、アキュラ・インテグラ、ホンダ・アコードやトヨタ・カムリーに乗っている仲間がいるあなたは三世(または四世)>というのがあった。<日本人扱い>されて強制的に収容所に送られた一世や二世たちが、性能の良し悪し以前に日本車を購入したくなかった心情は咎められない。

 いずれにせよ1960年代当時、北米や欧州でメード・イン・ジャパン製品は概ね安物の粗悪品というイメージが定着しており、とりわけ最先端製造技術が必要な自動車などは論外と見なされていた。同年、日産本社からロサンジェルスに乗り込んだひとりの男が、そうした悪いイメージを永遠に塗り替える画期的なクルマを具体化し市場に提供することになる。69年に北米市場に登場したスマートな2-ドアのスポーツカー、通称240Z(日本では「<フェアレディZ>」は驚異的な売れ行きを示す。去る2月21日東京で、その偉大なる先駆者、片山豊氏が享年105歳でまさに大往生され、NYタイムズ紙は追悼記事で「“Z”の父親として広く認識されていた」と評した。

 日本の自動車業界情報紙<cliccar(電子版)>も「<フェアレディZ>をはじめ多くの日産車をダットサン・ブランドとして米国に広めた」と評価、「初代<フェアレディZ>のコンセプトをまとめ、その誕生に大きな役割を果たした成果が認められ1998年に本田宗一郎氏、豊田英二氏、田口玄一氏に継いでエンジニア以外では異例の米国自動車殿堂入りを果たしています」と報じた。当初営業拠点をニューヨークに置く計画があったのを、北米自動車市場に精通する同氏が強引にNissan USA本社をロサンジェルスで立ち上げ、ディーラーに飛び込みでダットサンを売り歩いた。西部から徐々に東部へと各州で精力的に販売活動を展開していった米国日産の社長の名は、米人社員やディーラーたちの間でMr K.の愛称で知れ渡る。

 1975年、240Zが加わったNissan USA の売り上げは、米国での輸入外国車の販売数ナンバーワンを記録した。しかし同年、日産本社が突然発表した米国日産の<組織替え>で新社長と入れ替わる。また1996年、日産はダットサン240Z,260Z,280Z,.300Zと続いてきた<Zシリーズ>を300Zで生産中止にしたが、2001年にZカーは日産350Zして<復活>する。(詳細は新井敏記著 片山豊 黎明<角川書店>をご参照ください。)
 
 1935年に日産自動車に入社した同氏は宣伝業務を担当、戦時中は旧満州で勤務。終戦後やがて<クルマの有るライフスタイル>という当時としては斬新な販売コンセプトを提案、具体化した。例えばまだ一般消費者が貧しかった1954年に自動車業界合同の<第1回全日本自動車ショウ (東京モーターショーの前身)>の推進役を務め、50万人もの観客を動員した。同氏が当時考案した<ギリシャ神話の青年が車輪を持つ姿>のロゴは現在も使われている。また1957年には、日本車としては戦後初の海外ラリー、19日間1万マイルを走破する過酷なオーストラリア・ラリーにダットサン3台のチームを率いて参加、1,000cc以下のクラスで優勝するなど好成績をあげて社員一同はもちろん日本全国の自動車ファンを熱狂させた。

 Mr.Kの偉業の数々は古い自動車ファンならご存知かもしれない。明治生まれの片山氏は当時の日本人、否現代の日本人でも並外れた国際感覚と自動車に対する情熱と知識欲があった。そう断定できるのも、実は親父がたまたま同氏と大学生時代からの親友だった関係で、幼い頃から、東京・洗足にあった家をよく訪れる心身ともにデカイ<豊おじさん>と話をしたことがあるからだ。子供心にも自動車のことや外国のことに詳しいな、と聞き入ったものだ。

 色々とお世話にもなった。20余年後1970年代の始めに友人を頼ってコロラド州デンバーに行き、職を求めていた時のことだ。ロス本社のMrK.の取り計らいで、ちょうど同市の国際空港近くの日産部品発送所で従業員として採用された。4年間勤めた国際通信社を辞め<ヒッピー>のギター弾きとしてパリ、イビザやロンドンから来たばかり、まだ20代半ばで長髪頭だったのを刈りそろえ、ツナギを着て発送所で働き始めた。目方60kg位のエンジン・ブロックを両手で持ち上げて木箱に梱包できるようになったのが自慢だったっけ。同僚の一人が<社員価格>で260Zだったか新車を購入した時は、若い従業員たちが目をまるくして駐車場に<たたずむ>Zカーを取り囲んだものだ。

 結びに、なぜ市場に精通していたMr. Kが、1960年当初強引にNissanUSA本社をロスで立ち上げたのか、を考えてみる。当時の北米自動車産業の主要生産地デトロイトのビッグ・スリーがまだ全盛期、東部や中部のディーラー網を支配していた。ロールスロイスやベンツなど高級車の需要はあったが、あの燃費性が良い大衆車フォルクスワーゲンでさえ60年代にやっと小型車市場のシェアを確保できたほどだった。

 米国を東部、中部、西部と大雑把に分けると業界の気質、特徴が微妙に違う。東部は伝統的に欧州界との絆が強く、金融界はNYやボストンの大手銀行、証券会社などの金融機関が取り仕切ってきた。中部は歴史的に工業国ドイツやスカンジナビアなどの移民が多く、優秀なエンジニアリングの伝統がある。故にオハイオ州あたりの鉄鋼産業に依存する自動車産業がデトロイトで発展した。開拓者や荒くれの拳銃使いが出てくる映画でご存知の西部はハリウッドの映画産業、後にシリコン・バレー中心のコンピュータ産業と創造的な部門の最先端だ。カリフォルニア州のビジネス環境は<highest dreams per capita(1人当たりの夢の数が全米随一>といわれる。Mr. Kの夢を実現させるのに相応しい土壌だったのだ。

[文・渡辺正樹]